伝記
アウグスト・フォン・マッケンゼンは、1849年12月6日にプロイセン王国ザクセン州ヴィッテンベルク近郊の屋敷で、荘園管理人の息子として生まれた陸軍軍人で、最終階級は元帥である。出生名はアントン・ルートヴィヒ・フリードリヒ・アウグスト・マッケンゼンといった。村の学校に通ったのちトルガウのギムナジウムに入り、ピアノを習って、劇の伴奏もした。1865年にハレに転校し、翌年にプロテスタントの堅信を受け、生涯、敬虔な信徒だった。1868年に成績不振で退学し、虚弱と判断されて兵役から外されたため、親元で農業の修業を始めたが、一転して兵役に堪えると判断され、ポーゼン州の第2ユサール連隊に一年志願兵として入営した。その後ハレ大学で農学を学び、経済学や史学の講義も聴いた。1870年の普仏戦争には予備役士官候補生として従軍し、偵察で戦功を挙げて第二級鉄十字章を受け、12月に少尉に任官した。
1873年に職業軍人の道に進んだ。勤勉に軍務をこなし、戦記の執筆でも高い評価を得て、軍部内で名を高めた。1877年、ケーニヒスベルク駐屯軍に移り、そこで戦記の中で顕彰した将校の妹ドロテアと知り合い、1879年に結婚した。彼女の父は東プロイセン州知事で、出世に好影響を与えたことは否定できない。陸軍大学で学んだのち、1880年に参謀本部に移り、1891年に新参謀総長シュリーフェンの第一副官となった。1898年から皇帝ヴィルヘルム2世の副官を務め、翌年、皇帝の40歳の誕生日を祝って貴族に叙されて「フォン・マッケンゼン」を名乗るようになった。
1914年に第一次世界大戦が始まると、参謀長ハンス・フォン・ゼークトとともに戦略家としての名声を得た。8月に第17軍団司令官となり、東プロイセンのグンビンネン付近でロシア軍と激突して、2時間で9000人が戦死する凄惨な戦いを経験し、のちに「あれは大虐殺だった」と回顧している。直後のタンネンベルクの戦いでは、彼の軍団がロシア第2軍を包囲するうえで決定的な役割を果たした。11月に第9軍司令官となり、翌1915年4月には新設の第11軍司令官に転じた。5月のゴルリッツ=タルヌフ攻勢で毒ガスも使ってロシア軍の戦線を突破し、この戦功により元帥に昇進した。セルビアを征服し、1916年にはオーストリア軍との共同作戦でルーマニアを征服して、終戦までルーマニア軍政総督を務めた。
終戦時にハンガリーやサロニキで拘束され、1919年にドイツに戻った。ドイツは戦争で負けたのではなく内政の混乱で負けたと信じ、ヴァイマル共和国には否定的だった。ナチスに対する姿勢は複雑で、伝統的なプロイセン軍人としては懐疑的だったが、ヒンデンブルクと違ってヒトラーを認めていた。ヒトラーは1935年にブランデンブルク州で荘園を彼に与えている。一方で、ポーランドでの蛮行やナチスの反教会政策には公開書簡で反対し、長いナイフの夜事件でシュライヒャーらが殺されたことにもヒトラーに直接抗議した。1941年6月には、亡命先で没したヴィルヘルム2世の葬儀に出るためオランダへ赴いた。1944年7月20日の暗殺未遂事件では首謀者を激しく非難し、国防軍名誉法廷の一員として計画参加者の不名誉除隊に関わった。1945年初頭にニーダーザクセン州に疎開し、96歳の誕生日の一か月前の11月に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル (1945年没)
- ジョージ・ウィリス・リッチー (1945年没)
- ルートヴィヒ・ディールス (1945年没)
- サイモン・B・バックナー・ジュニア (1945年没)
- レオニード・パステルナーク (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- フリッツ・クライン (親衛隊員) (1945年没)
- チャールズ・スペンサー (第3代マールバラ公) (1758年没)
- ヴィルヘルム2世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1369年没)
- クリスティーナ・ゼーダーバウム (2001年没)
- アウグスト・フィック (1916年没)