HISTORICAL PERSON · 1945年没

アンネ・フランク

『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女。オランダの隠れ家で暮らしたが、ホロコーストの犠牲となった。

生涯
1945年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州 / ベルゲン・ベルゼン強制収容所)
出生地
ドイツ連邦共和国(Maingau Clinic of the Red Cross)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州)

伝記

アンネ・フランクことアンネリース・マリー・フランクは、1929年6月12日に生まれ、1945年2月から3月ごろに没した、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。ホロコーストの犠牲者であった。

ドイツのフランクフルト・アム・マインで、オットー・フランクとエーディト・フランクの次女として生まれた。父はユダヤ系ドイツ人の銀行家で、母は、アーヘンの有名な資産家の娘であった。3歳年上に姉のマルゴットがいた。生後12日目にフランクフルト郊外のアパートに連れ帰られた。一家は中産階級のユダヤ人で、ユダヤ教にはあまり熱心ではなかった。しかし、家業の銀行業は世界的な不況から立ち直れず、業績が悪化していたため、節約のためにアパートを借りるのをやめ、父方の祖母アリーセが暮らす実家に戻った。このころのドイツでは、反ユダヤ主義を掲げるナチ党が急速に伸長していた。フランクフルトでも、反ユダヤ主義デモを行う突撃隊員の姿がよく見られた。1932年にオットーは、エーディトと相談してドイツを離れることを考えたが、亡命先で生活の糧を得る見込みがなく、断念した。

1933年1月30日、ヒトラーがヒンデンブルク大統領から首相に任命されて、政権を掌握した。危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人たちは次々と亡命し、この年だけで6万3000人あまりが国外へ出た。ユダヤ人商店のボイコットは激化し、ユダヤ系企業は次々と潰された。反ユダヤ主義に従わない教師は停職や退職をさせられ、学校でもユダヤ人の子供の隔離が進められ、アンネもマルゴットも、ドイツでまともな教育を受けることは不可能になった。スイスにいた叔父エーリヒ・エリーアスが、義兄のオットーに、アムステルダムで商会のオランダ支社を経営しないかと勧めた。オットーは、オランダに知り合いがいたことや、難民に比較的寛容だったことなどを考慮して、これを受けた。1933年6月にオットーが単身でアムステルダムへ移り、アンネは姉や母とともに、アーヘンの祖母ローザの家で暮らした。1933年12月に母と姉が先に向かい、1934年2月にアンネも移住した。

アムステルダム・ザウト地区には、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人が多く集まっていた。アンネは1934年に近くのモンテッソーリ・スクールの付属幼稚園に入り、1935年9月に同じ建物の学校に入学した。この学校は自由な教育を特徴とし、時間割が存在せず、授業中のおしゃべりさえ推奨していた。アンネにこの学校を選んだのは、おしゃべりで、長くじっと座っていられない性分だったためという。父は「アンネは陽気な性格で、女の子にも男の子にも人気があった」と語っている。のちに、病弱でもあり、小児病にはほとんど罹っている。

しかし第二次世界大戦が始まり、1940年5月10日にドイツ軍がオランダへ侵攻し、1週間足らずで全土が占領された。オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日から、一家は隠れ家での生活に入ることを余儀なくされた。ヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーも入り、計8人が2年間暮らし、その間アンネは日記を書き続けた。1944年8月4日にナチス親衛隊に隠れ家を発見され、全員が強制収容所へ移送された。アンネは姉とベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移され、不衛生な環境に耐えられず、発疹チフスで15歳の命を落とした。隠れ家に残された日記は、ミープ・ヒースが保存し、ただ一人生き延びた父オットーに手渡された。オットーは出版を決意し、日記は60以上の言語に訳され、2500万部を超えるベストセラーになった。

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