伝記
ヨランド・ド・ドルーは、1263年3月20日にドルー城で生まれたフランスの貴族女性で、スコットランド王アレグザンダー3世の2番目の妃、のちにブルターニュ公アルテュール2世の2番目の妃となった。父はフランス王家カペー家の分家にあたるドルー伯ロベール4世、母はモンフォール=ラモーリー女伯ベアトリスで、ヨランドは二人の次女である。祖先をたどると父方はフランス王ルイ6世に、母方はレスター伯シモン・ド・モンフォールの兄弟アモーリーにつながる。兄弟姉妹は5人で、兄のジャンはのちにドルー伯を継ぎ、姉妹にはモンモランシー領主マチューの妻マリー、ブレーヌ女伯ジャンヌ、修道院長となったベアトリスがいる。ヨランドは母を継いで、モンフォール=ラモーリー女伯となった。
アレグザンダー3世は1275年に先妻マーガレット・オブ・イングランドと死別し、1281年から1284年までの間に、2男1女の子供の全員に先立たれていた。跡継ぎが必要になった王にとって、ヨランドは適当な花嫁と見られた。ルイ6世の血を引くうえ、ドルー家とクーシー家を通じて王と共通の祖先があり、この結婚はイングランド王エドワード1世と距離を置き、フランスと結んでスコットランドの独立を強調する意味も持った。1285年2月にスコットランドから使節が送られ、夏にヨランドは兄のジャンに付き添われてフランスから到着した。同年10月14日、ジェドバラの修道院で結婚式が行われ、花嫁は22歳、花婿は44歳だった。
結婚から5か月後の1286年3月19日、王はエディンバラでの会議を終えると、夜になって馬でキンホーンの城へ向かった。ヨランドのもとへ行き、翌日の誕生日を祝うつもりだったらしく、またこの頃に妻の懐妊を知ったのかもしれないともいう。嵐が近づいており、渡し守や周囲の人々が一泊するよう勧めたが、王は聞き入れず、暗闇の中で供の者とはぐれた。翌日、王の遺体はペティカーの浜で見つかった。落馬して首を折ったとみられるが、犯罪によるとする説や、酔っていたとする説もある。ヨランドは王との間に子をもうけずに終わった。スコットランドの貴族たちは、王と先妻の娘がノルウェー王エイリーク2世との間にもうけた3歳の孫娘マーガレットを女王に立てた。ヨランドはスターリング城に移り、自分は身ごもっていると述べたという。
1294年、ヨランドはドルー家の遠縁にあたるブルターニュ公アルテュール2世と再婚し、1男5女をもうけた。長男は、のちにモンフォール=ラモーリー伯となるジャン・ド・モンフォールで、娘のベアトリクスはギー10世・ド・ラヴァルの妻、ジャンヌはロベール・ド・カッセルの妻、アリックスはヴァンドーム伯ブシャール6世の妻となり、ブランシュは1300年に没し、マリーはポワシー修道院の尼僧となった。アルテュールは先妻との間にすでに3人の息子があり、その次男の娘ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと、ヨランドの子ジャン・ド・モンフォールとの間に後年相続争いが起こり、ブルターニュ継承戦争へと発展した。ヨランドがブルターニュ公妃であったのは1305年から1312年のことで、1330年8月2日、ポール・ロワイヤル・デ・シャン修道院で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- オイフェミア・フォン・ポンメルン (1330年没)
- アレクシオス2世 (1330年)
- エリシュカ・プシェミスロヴナ (1330年没)
- ジェームズ・ダグラス (1330年)
- アウハディー・マラーギー (1330年代没)
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