伝記
パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスは、1897年10月29日、ドイツ帝国プロイセン王国に属する織物業の小都市ライトで生まれた。両親は敬虔なカトリックで、父フリードリヒは貧しい職工の家に生まれ、工場の事務職を経て業務支配人まで出世した人物だったが、給料は一般の職工とあまり変わらず、家計は貧しかった。母マリア・カタリナはオランダ人鍛冶屋の娘で、結婚前にドイツ国籍を取得していた。ゲッベルスは夫妻の三男で、司祭になることを望まれた。4歳のとき右の下腿に小児麻痺を患って手術を受け、左右の足の長さが違い、一生涯、整形具で足を包んで引きずるように歩くことになった。遊びに加われなかったことは決定的なコンプレックスとなり、人格形成に大きな影響を与えたとされる。
屋根裏の部屋で読書にふけり、成績は常に優秀だった。父は貧しい家計をやりくりして、1908年から息子をギムナジウムに通わせた。1914年に第一次世界大戦が始まると従軍を志願して検査を受けたが、軍医は障害を理由に不適格と認定し、その夜は泣きじゃくったという。1917年にギムナジウムを卒業すると、仕送りと家庭教師の収入でやりくりしながらボン大学で歴史と文学を学び、特にゲーテの劇作を研究した。生活が苦しくなり、カトリックの慈善団体から奨学金を借りたが、のちに反カトリックとなった彼は長く返済せず、1930年に協会が訴訟を起こして取り戻した。その後も大学を転々とするうちに、カトリックへの信仰は薄れた。
1920年にハイデルベルク大学に移り、1921年春から4か月かけてロマン派の劇作家を論じた博士論文を書き、1922年4月21日に博士号を授与された。論文は美学的な関心が主で、政治的傾向はほとんど見られない。大学時代には左翼的な思想を持っていたとみられ、フライブルクで知り合った共産主義者の復員兵から、マルクスやラーテナウ、ドストエフスキーの著作を借りて読んだ。ハイデルベルクの教授はユダヤ人で、恋人のエルゼ・ヤンケも半ユダヤ人であり、この時期の反ユダヤ主義的な傾向は少なかったとされる。1919年の友人宛ての手紙には、罵倒や迫害でユダヤ人を始末してはいけないと書いている。
しかし学位を取っても職が見つからず、一時は実家に戻り、ようやくケルンの銀行に職を得たが、不況でわずか9か月で解雇された。1923年の大インフレを経験し、貧困に苦しむうちに反資本主義の思想を持つようになり、反ユダヤ主義の思想が芽生えていった。新聞社や放送局にも採用を拒まれ、世界が「ユダヤ化されている」と映って、憎しみを強めたとされる。日記には、「僕はまだ何者でもない。大いなるゼロだ」と記している。
政治家としての第一歩は1924年で、友人に誘われて様々な政治集会に参加し、演説をするようになった。同年8月には右翼政党の議員の知遇を得て、エルバーフェルトで発行された新聞『民族的自由』の編集員となり、10月には編集長を任された。しかしブルジョワ保守的な党とは反りが合わず、小規模すぎる新聞に不満を募らせた。1924年末ごろからナチ党のカール・カウフマンと親密になり、ナチ党で働けないかと頼み込むようになった。のちにナチ党左派の中心人物の一人となったが、ヒトラーに接近し、第3代宣伝全国指導者としてナチ党の勢力拡大に貢献し、政権下では国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。1945年、ヒトラーの遺書によって首相に任命されたが、5月1日、家族を殺害した後に自殺した。
同じ年に亡くなった人物
- Antonio Palacios Ramilo (1945年没)
- クリスティアン・ヴェーバー (1945年没)
- ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル (1945年没)
- フランツ・ツィライス (1945年没)
- 西田幾多郎 (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- フーゴ・シュティネス (1924年没)
- エバ・レンジー (2005年没)
- ヴェルナー・クリンガー (1972年没)
- フリードリッヒ・ティーティエン (1895年没)
- リカルド・ノルドローク (1866年没)