伝記
エルンスト・カッシーラーは、1874年7月28日、シュレージエンのブレスラウ(現在のポーランド領ヴロツワフ)に、ユダヤ系の家庭の子として生まれたドイツの哲学者・思想史家である。ベルリン大学で文学と哲学を学び、のちマールブルク大学でコーエンやパウル・ナトルプに学んだ。1899年に、デカルトの数学的自然科学的認識の批判を論じた博士論文を、コーエンのもとに提出した。続く1902年には『ライプニッツ体系の科学的基礎』を書き、新カント派(マールブルク学派)の影響下で、哲学史の研究に取り組んだ。
1903年からベルリン大学の私講師を務めながら、哲学、科学、理論的思考へと考察を集中させた。1906年に『認識問題』で教授資格を申請し、審査にはヴィルヘルム・ディルタイとアロイス・リールがあたった。1907年には、『認識問題』第2巻でのカント解釈により、ベルリン大学にポストを得た。『認識問題』は、中世から近代までの認識論の問題を軸とする大著で、1910年の『実体概念と関数概念』では、近代科学の転回として、見ることのできる実体概念から、関数的な記述でしか捉えられない関数概念への移行を分析した。これらの哲学史、思想史の著作により、マールブルク学派とは一線を画していった。
1919年に新設されたハンブルク大学の教授に就任し、当地の「ヴァールブルク文化学図書館」に衝撃を受けた。「この文庫は危険です。わたしはここを避けるか、あるいは何年もここに閉じこもらねばならないでしょう」と述べたと伝えられる。1923年には、当時クロイツリンゲンの診療所で精神治療を受けていたアビ・ヴァールブルク本人を訪ねている。この図書館を利用しながら神話論やルネサンス期の研究に取り組み、主著『シンボル形式の哲学』(全三巻、1923年、1925年、1929年)をまとめた。カント的な「理性の批判」を「文化の批判」へ転換させる試みであり、言語や神話、宗教、科学などのシンボル形式の分析によって、原初的な神話的思考から洗練された科学的思考までを発生的に結びつけた。学生にはレオ・シュトラウスやハンス・ライヘンバッハがいた。1929年にはハイデガーとダヴォス討論を行った。
1933年にナチスが政権を握ると、イギリスへ移ってオックスフォード大学の講師となり、1935年までその職にあった。のちスウェーデンのヨーテボリ大学教授となったが、1941年にナチスの勢力が拡大したため、アメリカへ移った。ハーヴァード大学は、かつて彼が一度招聘を断ったために採用せず、まずイェール大学で教え、のちニューヨークのコロンビア大学に移った。スウェーデンに帰化しており、ニューヨークで心臓発作により急逝した。1945年4月13日であった。晩年にアメリカの読者に向けて書いた『人間』では、人間を“象徴を操る動物”と捉え、動物が本能や知覚で世界を受け取るのに対し、人間は意味を持つシンボル体系を作ると論じた。没後の1946年に出版された『国家の神話』では、ナチスなどの全体主義国家理論を批判的に考察した。その思想は、アメリカでスザンヌ・ランガーやネルソン・グッドマン、クリフォード・ギアツらにも影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- 西竹一 (1945年没)
- ル・ペトマーヌ (1945年没)
- ハリー・ヒルマン (1945年没)
- ロベール・ブラジヤック (1945年没)
- クルト・ゲルシュタイン (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴワディスワフ・ボルトノフスキ (1966年没)
- ジェームズ・マキャフリー (2023年没)
- ビンス・マクマホン・シニア (1984年没)
- ジェイムズ・フェニモア・クーパー (1851年没)
- フレッド・トランプ (1999年没)