HISTORICAL PERSON · 1945年没

フランツ・ヴェルフェル

オーストリアの小説家、劇作家、詩人。マーラーの未亡人アルマの最後の夫で、ヴェルディのオペラをドイツ語に翻訳してヴェルディ・ルネサンスに貢献した。

生涯
1945年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ビバリーヒルズ)
出生地
チェコ共和国(プラハ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

フランツ・ヴェルフェルは、1890年9月10日、当時オーストリア=ハンガリー帝国に属していたボヘミアのプラハに生まれた小説家、劇作家、詩人である。裕福な手袋・革製品の製造業者ルドルフの長男で、ユダヤ人の家庭に育った。母アルビーネは製粉業者の娘で、二人の妹がいる。幼い頃はチェコ人のカトリックの家政婦に育てられ、彼女によくプラハの大聖堂のミサへ連れて行かれた。ピアリスト修道会の学校で教育を受け、カトリックへの早くからの関心は、神智学やイスラムなど他の宗教にも広がり、その作品は宗教の比較史に洞察を与えている。

若くして書き始め、1911年には最初の詩集『世界の友』を出していた。同じ頃、プラハのユダヤ系ドイツ語作家のカフカやマックス・ブロートらと友人になり、詩はカール・クラウスに称賛されて、クラウスの雑誌に初期の詩が載った。1912年にライプツィヒに移り、クルト・ヴォルフの出版社の編集者となり、ゲオルク・トラークルの最初の詩集の刊行を支えた。ドイツにいる間に、エルゼ・ラスカー=シューラー、マルティン・ブーバー、リルケらにも交友が広がった。第一次世界大戦ではオーストリア・ハンガリー帝国軍に従軍し、ロシア戦線で、のちに報道部隊に勤務した。あからさまな平和主義の主張によって、反逆罪の容疑で逮捕されたこともある。1917年の夏、前線からウィーンの軍の報道局に移った。

そこでマーラーの未亡人アルマと恋に落ちた。アルマは建築家ヴァルター・グロピウスの妻であったが、1920年にグロピウスが離婚に同意した。それでも、アルマは9年間はヴェルフェルとの結婚を拒み、1929年に二人は結婚した。このときすでに小説家として名を成していたが、彼を真に有名にしたのは1933年の小説『モーセ山の四十日』である。オスマン帝国で1915年に起きたアルメニア人虐殺を扱った作品だ。ヴェルフェルは若い頃からオペラに親しみ、当時のドイツ語圏では珍しくヴェルディを好んだ。1924年に小説『ヴェルディ』を著し、5年間で少なくとも6万部が刷られるベストセラーとなった。1926年には書簡選集をパウル・シュテファンと編んでいる。

ドイツ語圏でのヴェルディの上演が、『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『ラ・トラヴィアータ』の3作に集中しているのを遺憾とし、1925年の『運命の力』のドイツ語訳を皮切りに、『シモン・ボッカネグラ』や『ドン・カルロ』を訳した。共鳴した指揮者ゲオルク・ゲーラーも別の作品を訳し、各国の劇場で相次いで上演されて、1930年代の初めには、ドイツ全体でのヴェルディの上演本数が、一時的にワーグナーを上回った。これを「ヴェルディ・ルネサンス」という。

ユダヤ人であるヴェルフェルは、1938年のオーストリア併合を受け、アルマとともに故国を脱出した。はじめはフランスに亡命し、ルルドを訪れて聖人ベルナデットの印象を得た。その体験は、のちの小説『ベルナデットの歌』(1941年)となり、1943年にハリウッドで映画化された。翌年の独仏開戦でフランスも危険になり、マルセイユのアメリカ人ジャーナリスト、ヴァリアン・フライの支援でアメリカに再亡命した。南カリフォルニアで、最後の劇作『ヤコボウスキと大佐』を著した。1945年8月26日、心筋梗塞のためロサンゼルスで亡くなった。遺体は初めローズデール墓地に葬られ、戦後の1975年にウィーンの中央墓地へ改葬された。

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