伝記
趙孟頫は、南宋の末から元にかけて生きた政治家で、書と絵の名手として知られる人物である。一二五四年に湖州烏程県で生まれ、字は子昂、のちに松雪道人などと号した。出自は宋の皇族で、南宋の第2代皇帝孝宗の同母兄にあたる趙伯圭の玄孫にあたる。妻の管道昇も画家として名高い。南宋の真州で司戸参軍という役職に就いたが、宋室が滅びたために官を離れ、その後は独学を続けた。モンゴルのために働く道を選ぶまでには、十年ほどの時が流れたともいわれる。
一二八六年、元の世祖クビライが民間に埋もれた人材を招こうとしたとき、侍御史の程鉅夫の推薦を受けて大都に上り、元に仕えることになった。この際には、御史中丞から「この者は滅ぼされた宋の旧皇族であり、陛下のお側に置くべきではない」という上奏があったという。それでも世祖は退けず、趙孟頫を近侍とした。宋を滅ぼした王朝に仕えたことは一族からも非難され、縁を切る者さえいたとされる。詔書を書かせると世祖の期待どおりの出来であったため、世祖は刑法の議論にも加わらせた。「若い南人にモンゴルの法が分かるものか」と難じる者を論破して黙らせたことから、さらに引き立てられて兵部郎中となり、経済官僚としても重く用いられた。
一二九〇年に大都で大地震が起こると、権勢をふるう丞相のサンガを恐れた官僚たちはこれに触れようとしなかった。サンガは被災者に厳しい取り立てを行い、自殺者まで出たという。集賢直学士であった趙孟頫は、上司のアルグンサリと図って税の免除を進めようとした。サンガが「陛下の意思でもないのに減税するのか」と怒ると、趙孟頫は、死んだ者から税は取れず、災害のときに減税しなくていつするのか、未納はそもそもあなたの不始末ではないかと言い返し、ついに減税を断行したと伝えられる。さらにアルグンサリを励まして世祖に諫言させ、サンガを誅殺させたという。このとき世祖から中書政事への就任を打診されたが、固辞した。
世祖は一二九四年に没したが、趙孟頫はその後も四人の皇帝に仕え、集賢院や翰林院の学士となって、元の朝廷の長老として重んじられた。世祖の死のときに官を退いたとするものもある。一三二二年に亡くなると、魏国公に追封され、文敏の諡を贈られた。
書では王羲之の書風を学び、宋代の奔放な書風とは一線を画して、後の時代の手本となった。『元史』には、天竺の僧が彼の書を求めて数万里を旅してきたとあり、帰国した僧はそれを国じゅうの宝にしたという。本人は王羲之の書風の復興者を自任していた。絵でも文人画を復興させ、元末四大家を導いたとされる。馬や竹、古木、岩、山水を得意とした。ある秋の山水画は、離れた二つの場所を記憶をたよりに組み合わせて描いたもので、書の筆づかいを絵に取り込んだ点が新しかった。文集に『松雪斎集』がある。のちの清の乾隆帝は彼を偉大な師とみなし、その書を書き写している。一方で、宋の皇族でありながら敵の王朝に仕えたことへの批判は生前から絶えず、死後も続いた。幕末の志士藤田東湖は、手本にした趙孟頫の書を床に置いて「不忠者」とののしったという。これに対し、『新元史』を著した柯劭忞は、殷の遺臣である微子啓のような人物だから、節操を責めるよりむしろ憐れむべきだと弁護している。
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