伝記
アンターナス・スメトナは、1874年8月10日にリトアニアのウクメルゲ近郊の村で、小さな農家に生まれた政治家であり、リトアニア共和国の初代大統領である。両親はもと農奴の家の出で、スメトナは九人きょうだいの八番目だった。父は読み書きができ、彼は家で文字を覚えた。父は1885年に亡くなったが、遺言として、きょうだいの中で彼だけが小学校に送られた。母は彼が司祭になることを望んだ。パランガの予備ギムナジウムを卒業すると、カトリック教会の聖職者を目指してカウナスの神学校の入学試験に合格したが、様々な事情から計画を変え、ラトビアのイェルガヴァのギムナジウムに入った。ここで、秘密のリトアニア学生組織に所属した。この組織は民族主義者の集まりで、本質的に反ツァーリ主義者の集まりでもあった。1896年秋、ロシア正教会の義務的奉仕に対する学生の抵抗活動を組織して、ギムナジウムから追放されたが、のちにサンクトペテルブルクのギムナジウムで学ぶことを許された。
1897年にサンクトペテルブルク大学法学部に入り、リトアニア学生の秘密組織の議長となって、リトアニア語の本の出版と普及に携わった。二度、大学から放逐される恐れに直面し、逮捕と短期間の投獄も経験した。1902年に卒業し、ヴィリニュスの農業銀行で働いた。リトアニア民主党に入党し、1904年から1907年には新聞社のスタッフとなり、1905年から翌年には週刊紙を編集した。1907年には『ヴィルティス』紙の印刷事業を始め、紙上でリトアニア人の連帯を主張した。第一次世界大戦中は、戦争被害者を支援するリトアニア救援協会の中央委員会の議長となった。1916年夏、ドイツの東部戦線司令官に、リトアニアが独立国家となる権利を要求する覚え書きを渡した。1917年9月には新聞の発行を始め、創刊号に「リトアニア民族の最も重要な目標は、独立したリトアニア国家を再び確立することだ」と書いた。
1917年9月、リトアニア評議会に加わり、1919年まで議長を務め、1918年2月16日にはリトアニアの独立宣言に署名した。1918年12月から1919年3月にかけては、ヴァイマル共和国やスカンディナヴィア諸国でリトアニア独立のための借款を懇請した。1919年4月4日、国家評議会は彼をリトアニア共和国の初代大統領に選出した。しかし1920年4月に後継者が選ばれ、その後は国会に再選されず、1921年から1924年は定期刊行物の編集にあたった。1923年にはリトアニア大学の助教授となり、倫理学や古典哲学の講義をした。
スメトナは、大統領を追放した1926年のクーデターの首謀者の一人であり、同年12月19日に再び大統領となった。アウグスティナス・ヴォルデマラスを首相に任命し、翌1928年に議会を抑圧して、大統領の権限をさらに強めた新憲法を公布した。1929年にはヴォルデマラスを退任させ、リトアニアの独裁者となった。1931年と1938年の大統領選挙で再選され、地主を優遇し共産党を弾圧したが、国の経済は安定し、軍事費と教育費を引き上げて識字率の向上に努めた。1940年にリトアニアがソ連に占領され、最後通牒を突きつけられると、職務を首相に引き継ぎ、6月15日に家族とともにドイツへ亡命して、スイスへ向かった。1941年にアメリカ合衆国に移住し、1942年5月に息子一家の住むクリーブランドへ移った。亡命後は自伝などの執筆を始めたが、1944年1月9日、息子の自宅の火事で死亡した。
同じ年に亡くなった人物
- ユリエ・ヴォルフトルン (1944年没)
- William Dickey (1944年没)
- ヘンドリック・ウィレム・ヴァン・ルーン (1944年没)
- ルーペ・ヴェレス (1944年没)
- チャールズ・ダベンポート (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- ピート・ラデマッハー (2020年没)
- フローレンス・ハーディング (1924年没)
- デビッド・アルブリットン (1994年没)
- ヴァージニア・ハミルトン (2002年没)
- Sidney Johnson (2000年没)