伝記
ヴィオラ・エルジュビェタ・チェシンスカは、1291年ごろに生まれ、ボヘミア王兼ポーランド王ヴァーツラフ3世の妃となった女性である。チェシン公ミェシュコ1世の三番目の子で、ただ一人の娘だった。母は不明だが、おそらくグジミスワヴァという名だったとされる。ヴィオラという名は、父方の曾祖母でオポーレ公カジミェシュ1世の妃だったヴィオラにちなんでいる。
1305年10月5日、ヴィオラはブルノで、ポーランド王を兼ねるボヘミア王ヴァーツラフ3世と結婚した。この結婚の理由は必ずしも定かでない。後世の年代記作者は彼女が類いまれな美貌の持ち主だったためだと記すが、父のミェシュコ1世はヴァーツラフ3世にとって封臣の一人にすぎず、どう見ても不釣り合いな縁組であった。本当の理由は美しさではなく、ボヘミアとポーランド両王国の国境に位置するチェシンの戦略的な重要性にあったのかもしれないといわれる。結婚式の4日後の10月9日、ヴァーツラフ3世は長年の許嫁だったハンガリー王アンドラーシュ3世の一人娘エルジェーベトとの婚約を破棄し、ハンガリー王位に対する要求権をすべて放棄した。
結婚後、ヴィオラは名をエルジュビェタと改めた。しかし結婚生活は幸福とはいえなかった。夫の放縦な生活ぶりに加え、「身分違い」の結婚に強く反対していたボヘミア貴族たちが、王妃を冷遇したからである。結婚から10か月後の1306年8月4日、オロモウツに滞在中のヴァーツラフ3世は、不可解な状況下で暗殺された。ヴィオラは15歳で未亡人になったが、夫妻がまだ幼かったためか懐妊してはいなかった。金も行く場所もなく、おそらく義妹のアンナやエリシュカとともに女子修道院に身を寄せたと考えられる。義妹たちはボヘミアの王位継承争いに身を投じたが、ヴィオラはこの紛争に関わらなかった。のちには、寡婦領として与えられた都市のあるモラヴィアに主に住んだ。
有力者インジヒ・ズ・リペーが逮捕されると、ボヘミア王妃となったエリシュカと、そのドイツ人の夫ヨハン・フォン・ルクセンブルクは、リペーの娘と婚約していた有力貴族ペトル1世・ズ・ロジュンベルクを味方につけようと試みた。ロジュンベルクはすぐに婚約を解消し、国王夫妻の側近の仲間入りをした。この新しい同盟者との関係を強めるため、ヨハンは先王の未亡人であるヴィオラとロジュンベルクの縁組をお膳立てした。二人は1316年に結婚したが、子はなく、ヴィオラはその翌年の1317年9月21日に亡くなった。遺体はヴィッシ・ブロト修道院内にあるロジュンベルク家の地下納骨堂に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン5世 (ブランデンブルク辺境伯) (1317年)
- ジョヴァンニ・ピサーノ (1317年(推定))
- Agnes of Montepulciano (1317年)
- ヴィオランテ・ディ・モンフェラート (1317年没)
- Manfred of Athens (1317年没)
同じ地域に関係する人物
- ズデニェク・ミレル (2011年没)
- ブジェチスラフ2世 (1100年没)
- カール・オイゼビウス (1684年没)
- ヴラチスラフ2世 (ボヘミア王) (1092年没)
- カレル・カヒーニャ (2004年没)