伝記
ラモン・リュイ(ライムンドゥス・ルルス)は、マヨルカ王国のパルマ・デ・マヨルカ出身の哲学者、神学者、神秘家である。1232年ごろに生まれ、1315年6月29日に没したとされ、フランシスコ会第三会の会員であった。初期のカタルーニャ語文学に主要な作品を残し、「カタルーニャ語の父」と呼ばれる。計算理論の先駆者ともされ、ライプニッツに影響を与えた。
両親は、1229年にアラゴン=カタルーニャ連合王国のハイメ1世がマヨルカ島を征服した後、植民活動の一環として、カタルーニャ地方から島へ渡ってきた人々である。当時の島はイスラーム教徒が多数を占め、ユダヤ人も暮らす、三宗教の共存する特異な状況にあった。リュイはマヨルカ王国の成立直後の1232年ごろ、パルマの裕福な家庭に生まれた。幼くしてハイメ1世の小姓となり、廷臣として騎士道や詩作の素養を身につけた。王の次男ハイメの守役となり、1291年にそのハイメがマヨルカ王になると、執事長として相談相手を務めた。1257年ごろにブランカ・ピカニーと結婚し、一男一女をもうけたが、吟遊詩人のように浪費的な生活を続けた。
30歳ごろの1263年、宗教的な啓示を受けた。この様子は後に自伝『同時代人の生涯』に記されている。計6回の啓示を受け、家族、地位、財産を手放す決心をし、三つのことを企てた。イスラーム教徒をカトリックに改宗させるためには死も辞さないこと、異教徒の誤りを論駁するため、この世で最高の書物を著すこと、宣教師のための外国語教育の修道院設立を促すことである。1265年にはサンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼し、帰路でバルセロナに立ち寄り、パリで学ぶ決意を固めたが、家族やドミニコ会司祭の助言で断念してマヨルカ島に戻った。以後、ラテン語、自由七科、神学、哲学を独学し、約9年にわたってムーア人の奴隷からアラビア語とアラビア文化を学んだ。
1271年から1274年の間に長大な手引書『神の観想についての書』を書き、1274年にはランダ山の修道院で神からイスラーム教徒への宣教の召しを受けたとの確信を得て、『真理に到達するための術の提要』の草稿を書いた。1276年、ハイメの財政援助と教皇ヨハネス21世の承認を得て、バルデモーサにアラビア語学院を設立した。13年前に志した三点の一つが実現し、13人のフランシスコ会士がアラビア語や「術」を学び始めたが、1287年に彼が島を出ると後任が見つからず、開校から12年後に閉鎖された。1287年以降は地中海の全域をめぐって宣教し、パリでフィリップ4世に謁見した。1290年には、フランシスコ会総長から、イタリアの修道院で「術」を教えるよう依頼された。
60歳を越えてからも北アフリカで最初の宣教活動を行い、1297年にはパリ大学でドゥンス・スコトゥスと議論を交わした。ユダヤ人のカトリックへの改宗にも熱心で、ラビたちと論争した。1307年に北アフリカへ二度目の宣教旅行を行い、1309年にはパリで『アヴェロエス主義駁論』など30編以上の作品を残し、ラテン・アヴェロエス主義者と論争した。1311年のヴィエンヌ公会議では、彼の提唱により、アラビア語、ヘブライ語、カルデア語の3言語を五つの大学で教えることが認められたが、「術」の使用は却下された。晩年の1314年から1315年に三度目の伝道でイスラーム教徒の土地に赴き、チュニスで石を投げられた。このけがが元で、マヨルカ島に帰郷後すぐに死去したとされるが、帰郷前に死去したとする説もある。1857年に教皇ピウス9世によって列福された。
同じ年に亡くなった人物
- ユーグ5世 (ブルゴーニュ公) (1315年没)
- ブルガリアのツァーリイヴァン2世 (1315年(推定))
- Stephen I, Ban of Bosnia (1315年(推定))
- アバノのピエトロ (1315年没)
- マルグリット・ド・ブルゴーニュ (フランス王妃) (1315年没)
同じ地域に関係する人物
- スティーヴン・ゲイトリー (2009年没)
- カタリーナ・トマス (1574年没)
- デンホルム・エリオット (1992年没)
- クレメンス8世 (対立教皇) (1446年没)
- ジャウメ2世 (マヨルカ王) (1311年没)