伝記
フィリップ4世は、カペー朝のフランス王(在位1285年〜1314年)で、ナバラ王としてはフェリペ1世(在位1284年〜1305年)でもあった。1268年に生まれ、1314年11月29日に没した。整った顔立ちから「端麗王」と称される。フィリップ3世と最初の王妃イザベル・ダラゴンの子で、1276年に兄のルイが亡くなったため、幼少時から次期国王として育てられた。1284年にナバラ女王ジャンヌと結婚して、ナバラ王国とシャンパーニュ伯領を支配下に収め、シャンパーニュ伯領は王の本領イル=ド=フランスと隣接していたため、王の直轄領は大きく強化された。翌1285年に、アラゴン十字軍の遠征の帰りに病没した父の後を継いで即位した。
治世は中世ヨーロッパの王権の転換期にあたり、普遍性を主張してきた教皇や神聖ローマ皇帝の権威が衰える時期であった。王は聖職者に代えて、「レジスト」と称される世俗の法曹家を官僚に採用し、官僚制度の強化と中央集権化を進めて、近代的な国家形成の先がけとした。パリ高等法院の創設や三部会の設置も、この時期の施策であるとされる。1294年には、ガスコーニュやフランドルに勢力を伸ばそうと、イングランド王エドワード1世と戦争を始め、1299年まで続いたギュイエンヌの戦いは、アキテーヌ公としての臣従とガスコーニュの確保で和睦した。関心は、毛織物業で栄えたフランドルにあり、1297年から、フランドルの都市市民やそれを支援するイングランド王と激しく争った。1302年のコルトレイクの「金拍車の戦い」では、騎士中心の王軍が、市民の歩兵が中心のフランドル軍に敗れたが、1305年のモン=アン=ペヴェルでは微妙に優勢であった。王弟のヴァロワ伯シャルルが指揮官として活躍した。この戦争の膨大な戦費のため、フランスで初めて全国的な課税を行い、教会にも課税した。
教会への課税は、教皇至上主義を掲げる教皇ボニファティウス8世との激しい対立を招いた。教皇は1302年に回勅「ウナム・サンクタム」を発して、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越すると宣した。王はこれに対し、同年に聖職者、貴族、市民の三身分による三部会をパリのノートルダム大聖堂に設けて、国内の支持を求めた。怒った教皇が王を破門すると、王側は教皇を弾劾する公会議の開催を求め、両者は決裂した。1303年、腹心の法曹官僚ギヨーム・ド・ノガレに教皇の捕縛を謀らせた。ノガレは、教皇の政敵であるコロンナ家と結託し、アナーニの離宮を襲った。捕縛には失敗したが、辱められた教皇は憤死した。1305年、王は後任にフランス出身のクレメンス5世を擁立した。新教皇は一度もローマに入らず、教皇庁は後にアヴィニョンへ移り、約70年間、フランス王の強い影響下に置かれた。
1307年10月13日、フランス国内のテンプル騎士団員を、総長ジャック・ド・モレーもろとも一斉に逮捕し、拷問による異端審問を行った。教皇に働きかけて騎士団を解散させ、フランス国内の資産を没収した。これは騎士団の資産と金融システムの獲得が目的だったともいわれる。1314年にモレーらは火刑となり、モレーは王と教皇を呪ったとされる。同年、王は狩りの最中に脳梗塞で倒れ、数週間後にフォンテーヌブロー宮殿で没した。遺体はサン=ドニ大聖堂に葬られた。合理的で貪欲、酷薄と評される一方、個人的には敬虔なキリスト教徒で、祖父ルイ9世の列聖に尽力した。寡黙な王でもあり、司教ベルナール・セッセは「ワシミミズクのような人物」と評した。王妃と死別したのちは再婚しなかった。
同じ年に亡くなった人物
- Geoffroi de Charney (1314年)
- フライブルクのディートリヒ (1314年(推定))
- Rainier I of Monaco, Lord of Cagnes (1314年)
- 朱世傑 (1314年)
- ジャック・ド・モレー (1314年没)
同じ地域に関係する人物
- Henri Herouin (1926年没)
- シモン・アルノー・ド・ポンポンヌ (1699年没)
- アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン (1860年没)
- ニコロ・デッラバーテ (1571年没)
- ルイーズ・ド・サヴォワ (1531年没)