伝記
山本五十六は、1884年(明治17年)4月4日に新潟県長岡で生まれ、1943年(昭和18年)4月18日に没した日本の海軍軍人である。最終階級は元帥海軍大将。第26、27代の連合艦隊司令長官を務め、真珠湾攻撃を指揮した。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死し、日本で皇族・華族以外では最初に国葬を受けた人物である。
旧越後長岡藩士高野貞吉の六男として生まれ、旧姓は高野という。当時の父の年齢から「五十六」と名付けられた。母も45歳と高齢だった。負けず嫌いな子で、小学生のとき、「何でも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べだしたという。中学生のころ、10歳年長の甥の高野力が病死し、その際の両親の「五十六が力に代わって立派な武士(軍人)になってくれれば」という言葉が、トラウマになったとされる。1901年に海軍兵学校32期に200名中2番で入校し、堀悌吉と親友になった。1904年11月、日露戦争中に192名中11番で卒業した。卒業時に教官から「もっと喋れ」と注意されたが、自身は「直にして温」と戒めている。
1905年1月に装甲巡洋艦「日進」に配属され、5月27日の日本海海戦に参加した。この海戦で左手の人差指と中指を失い、左大腿部に重傷を負った。公式記録や本人の手紙では「敵砲弾の炸裂」とされるが、旧海軍関係者の間では、前部砲塔での砲身内早発の可能性が指摘されている。1909年にアメリカへ駐在武官として赴任し、1911年に海軍大学校乙種学生を卒業した。教官を務めた際に同僚となった米内光政と盟友になった。1915年に旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続し、1916年に改姓した。同年、海軍大学校を卒業して第2艦隊参謀となったが、腸チフスで命の危険に陥り、大手術で一命を取り止めた。1917年8月に三橋礼子と結婚している。
1919年にアメリカへ駐在し、ハーバード大学に留学した。油田や自動車、飛行機産業のサプライチェーンに強い印象を受け、日本では専売の砂糖と塩までが、アメリカでは大量に生産・消費されていることを、ワシントンD.C.の喫茶店で知って衝撃を受けたという。1924年に砲術から航空へ転科して、霞ヶ浦航空隊付となり、教頭兼副長に補された。1925年12月には駐米大使館付武官となり、再びアメリカの生産や流通体制を視察した。この経験は、のちの対米戦の戦略立案に大きな影響を与えたという。1928年に帰国して「五十鈴」艦長を務め、のち空母「赤城」の艦長となった。航空機搭乗員が禁煙を宣告されても無視していると、「私も煙草は好きだが、日本の為だ」と宣言して、自ら禁煙した。
1929年11月に海軍少将に進級し、ロンドン軍縮会議に次席随員として参加して、軍縮案に強硬に反対した。1930年12月に海軍航空本部技術部長に就くと、航空主兵を強力に推し進め、国産、全金属、単葉機の3つを海軍航空機の条件に掲げた。外国機の単なる模倣に終わるなら欧米科学に降伏したも同じだと、技術者たちを激励した。この後、連合艦隊司令長官となり、真珠湾攻撃を指揮し、1943年4月18日に戦死した。
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