伝記
松永行(まつなが あきら)は、1914年9月21日、静岡県志太郡東益津村(現在の焼津市)に生まれたサッカー選手である。ポジションはフォワード。実弟に、同じく日本代表となった松永信夫と松永碩がいる。静岡県立志太中学校(現在の静岡県立藤枝東高等学校)に入学してサッカー部に所属し、笹野積次は志太中での1年先輩にあたる。100メートルを10秒8台で走る俊足で、フォワードとして活躍したという。足は速かったが陸上競技には関心を持たず、サッカーを選んだとも伝えられる。
その後、東京文理科大学附置の東京高等師範学校に入学し、蹴球部に所属した。在学中の1935年6月に開かれた全日本蹴球選手権大会(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)には、中垣内勝久らとともに出場して準優勝の成績を残した。1936年にはベルリンオリンピックの日本代表に選ばれた。8月4日の本大会1回戦では、優勝候補のスウェーデン代表を相手に、0対2の劣勢から日本が追いついて3対2で逆転した。後半40分に相手ゴールキーパーの股下を抜く逆転ゴールを決めたのが松永で、のちに「ベルリンの奇跡」と称される勝利の立役者となった。この試合が代表デビューだった。8月7日には準々決勝のイタリア戦にも出場し、日本は敗れた。国際Aマッチの出場は2試合で、1得点を記録している。五輪の終了後には、スポーツ誌『体育と競技』に「オリムピック蹴球の回顧」と題する文章を寄せた。日本のサッカーは精神面では世界の水準以上であり、速いショートパスも水準以上で、ドイツのある権威者は、この点だけは日本から学んだと語ったと記し、ショートパスの速攻に遅攻を加えて緩急を整えたとき日本サッカーは完成し、世界の王者になる時が来ると述べ、個人技を鍛えることがただ一つの課題だと後輩に提言した。
1937年、東京高等師範学校の3年のときに陸軍に従軍し、静岡の連隊に配属された。そのとき妹には、戦争には行きたくない、もう一度ドイツに行ってサッカーを学び、指導者になりたい、と語ったと伝わる。オランダ領東インド方面へ転戦した後、1943年1月20日、歩兵第230連隊の中隊長としてガダルカナル島で戦死した。28歳だった。ベルリン五輪で着用した日本代表のユニフォームが今日まで残っており、現存する最古のサッカー日本代表のユニフォームとして、日本サッカーミュージアムに保管されている。2016年には、この代表チームが日本サッカー殿堂に選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- レナード・シフリート (1943年没)
- ダムロンラーチャーヌパープ (1943年没)
- エルンスト・リンデル (1943年没)
- リチャード・シアーズ (1943年没)
- オーレル・スタイン (1943年没)
同じ地域に関係する人物
- 一木清直 (1942年没)