伝記
ボリス3世は、1894年1月30日、ソフィアのヴラナ宮殿で、当時ブルガリア公国の摂政公だったフェルディナントと、パルマ公ロベルト1世の長女マリア・ルイーザの長男として生まれた。誕生は101発の礼砲に迎えられ、「タルノヴォ公」の称号を受けた。ブルガリアは当時オスマン帝国に属する若い公国で、住民の多くは正教徒なのに、統治者は敬虔なカトリックの夫婦という複雑な状況にあった。生まれてすぐカトリックの洗礼を受けたが、フェルディナントは、正教会に改宗させることで国民やロシアに近づこうと考えた。教皇レオ13世は破門をほのめかし、オーストリア皇帝は宣戦すら口にし、マリア・ルイーザも強く反対した。それでも国家の事情を優先し、1896年2月15日、ボリスは正教の儀式で改宗し、ロシア皇帝ニコライ2世が代父を務めた。フェルディナントは破門され、母は次男キリルを連れて国を離れた。1899年に母が出産の合併症で亡くなると、教育は祖母クレマンティーヌに、祖母の死後は父に任された。
父は教師を自ら選び、きびしい教育を求めた。ボリスは大半の教科に加えてフランス語とドイツ語を学び、のちにイタリア語、英語、アルバニア語も話すようになった。博物学を愛し、機関車にも関心を持って、1910年、15歳で鉄道機関士の試験に合格した。しかし父は権威的で、宮殿はボリス自身が「牢獄」と呼ぶ場所で、公式行事以外、国民や外の世界との接触はなかった。陸軍学校で教育を受け、第一次世界大戦に軍人として参加したが、敗北に伴い父が退位したため、1918年10月3日、24歳で即位した。国は荒廃して混乱の瀬戸際にあり、左右の極端派の対立で割れていた。
敗戦処理のなかで、アレクサンダル・スタンボリイスキ率いる勢力や共産党が伸びると、これを排除するため1923年にクーデターを起こした。国王は国内を巡って貧しい人々を助け、国外も訪れてブルガリアの印象を改善しようとし、その旅でイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の娘ジョヴァンナと知り合って、1930年に結婚し、1933年に長女マリヤ・ルイザ、1937年に長男シメオンが生まれた。1934年にも再度クーデターで議会と政党を解散させ、親ドイツ派の軍人の支持を得て、国王を頂点とする親政を確立した。親ドイツの経済協力を保つ一方、ソ連とトルコとの緊張を避けるため、第二次世界大戦では中立を探ったが、1941年に日独伊三国同盟に加入し、結局は枢軸国側で参戦した。ブルガリアは同年4月にドイツからマケドニアの占領を許された。形式上は同盟でも軍事的には参戦せず、国内のブルガリア系ユダヤ人をドイツへ送ることを拒んだと伝えられる。
1943年、ヒトラーを訪問したが、その2週間ほど後の8月28日に急死した。心臓発作とされているが、暗殺説もある。王位は幼いシメオン2世が継ぎ、弟のキリルらが摂政となった。遺体はリラ修道院に埋葬されたものの、社会主義政権下で改葬され、1954年に再び改葬されて以来、行方不明のままである。1989年の政権崩壊後の調査では、心臓を収めた容器だけが見つかり、1994年にリラ修道院に戻された。
同じ年に亡くなった人物
- イオアニス・ペルサキス (1943年没)
- ゾフィー・トイバー=アルプ (1943年没)
- イェラルド・ドゥ・イェール (1943年没)
- 柳原愛子 (1943年没)
- ジョージ・アンダーウッド (1943年没)
同じ地域に関係する人物
- クルステ・ミシルコフ (1926年没)
- ブラガ・ディミトロヴァ (2003年没)
- Germanus (551年没)
- エレナ・ラガディノヴァ (2017年没)
- ドブリ・ボジロフ (1945年没)