HISTORICAL PERSON · 1943年没

ヴワディスワフ・シコルスキ

ポーランドの政治家・軍人。ポーランド・ソビエト戦争の「ヴィスワ川の奇跡」の立役者で、第二次世界大戦中は亡命政権の首相を務めた。

生涯
1943年没
死亡地
イギリス連邦(ジブラルタル)
出生地
ポーランド共和国(トゥシュフ・ナロドヴィ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ジブラルタル)

伝記

ヴワディスワフ・エウゲニウシュ・シコルスキは、1881年5月20日、オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィアのトゥシュフ・ナロドヴィに生まれたポーランドの政治家、軍人である。父トマシュは学校の教師で、母はエミリア・ハブロフスカ、三番目の子だった。祖父は十一月蜂起のオルシンカ・グロホフスカの戦いで負傷し、武功勲章を受けている。ジェシュフのギムナジウムで学んだのち、1899年にルヴフのフランツ・ヨーゼフ・ギムナジウムに移り、1902年に卒業試験に合格した。同年からルヴフの工科大学で工学を学び、道路と橋の建設を専門として、1908年に水利工学の学位を得て卒業した。1906年には1年間の志願兵としてオーストリア=ハンガリー軍に勤務し、士官学校で予備役少尉の資格を得ている。1909年に結婚し、1912年に娘ゾフィアが生まれた。卒業後はガリツィアの水利部局でサン川の治水に携わり、民間では建設や不動産、石油の取引にも関わった。

大学在学中から、農村での識字率向上を目指す団体で活動し、1904年から1905年ごろには青年団体に短期間かかわったのち、独立を目指す社会主義系の武装組織に傾いた。1908年にルヴフで、ピウスツキらとともに、ロシア帝国に対する蜂起を目的とする秘密組織「積極闘争同盟」を組織した。1910年には、オーストリア=ハンガリー帝国領内でポーランド人武装連盟「銃兵隊」の創設に加わり、ルヴフ支部の代表となった。軍事教育を受けていたため、仲間の活動家に軍事戦術を講義した。1914年7月に第一次世界大戦が始まると、動員されたが、最高国民委員会の軍事部長となり、ポーランド軍団の募兵を担当した。当時のシコルスキは、オーストリア=ハンガリー帝国の庇護下でのポーランド再建に賛成していた。

1918年にポーランド軍に入隊した。ポーランド・ソビエト戦争では第5軍を指揮し、1920年8月14日、ワルシャワの北のモドリンから出撃して、一日あたり30キロ以上の迅速な機動で赤軍の攻撃を足止めし、最終的に退却に追い込んだ。この「ヴィスワ川の奇跡」の立役者となり、のち第3軍を指揮した。1921年に参謀総長、1922年に首相兼軍事相となり、1924年に軍事相、1925年に軍管区司令官を務めた。しかしピウスツキのクーデターのあと、新体制と対立して、1928年に罷免されフランスに亡命した。亡命先では穏健主義者の政治運動組織モルジュ戦線を設立し、ポーランドの民主主義と穏健主義の伝統を守ろうとした。一貫した民主主義者で、あらゆる急進主義に反対したとされる。

1939年から1943年まで、ポーランド亡命政府の初代首相を務め、国防相兼ポーランド軍最高司令官として、フランスでポーランド軍を、フランス侵攻後はイギリスで西部ポーランド軍を指揮した。1941年7月30日にソビエト連邦との国交回復及び軍事同盟条約に署名し、アンデルスの下でソ連領内に東部ポーランド軍がつくられた。1943年4月26日、カティンの森事件をめぐってソ連との国交は断絶した。同年7月4日、ジブラルタルで搭乗機が離陸直後に海へ墜落し、操縦士以外は全員が死亡した。事故の状況は今も議論されている。

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