伝記
シモーヌ・ヴェイユは、1909年2月3日、パリのアパートで、ユダヤ系の医師ベルナール・ヴェイユと母セルマの娘として生まれたフランスの哲学者である。数学者のアンドレ・ヴェイユは3歳年上の兄にあたる。1歳を過ぎても固形物を摂れず、医師に「この子は生きられない」と言われるほど重篤だったが、両親の努力で危機を脱した。両親はともにユダヤ系だったが、その「完全な不可知論」により、子どもたちをできるだけユダヤ的なものから遠ざけて育てた。1914年に第一次世界大戦が始まると、父は軍医として招集され、母は二人の子と祖母を連れて夫の任地を追って転々とした。教育は切れ切れになったが、兄が妹に字を教え、5歳のシモーヌは新年に父の前で新聞を読んでみせて驚かせた。7歳のときにはラシーヌやコルネイユを暗誦した。
1916年から兄妹は前線の兵士と文通し、お菓子を送った。シモーヌの相手の若い兵士は、8歳の彼女に会うために訪れたが、その後に戦死した。9歳の少女は戦後のヴェルサイユ条約が敗戦国ドイツに過酷すぎると感じ、弱い立場に同調し、抑圧を嫌悪する関心は終生保たれた。1919年にパリのフェヌロン高等中学に入学したが、14歳のとき数学の天才の兄と自分を比べて自殺を思うほどの劣等感にみまわれ、数か月苦しんだ末に立ち直った。1924年6月に15歳でラテン語とギリシア語のバカロレアに合格し、翌1925年6月に16歳で哲学のバカロレアにも合格した。さらに高等師範学校を目指してアンリ4世高等中学の準備学級に入り、哲学者アランの教えを受けて、多大な影響を受けた。1928年に高等師範学校に合格し、1931年7月、22歳で哲学のアグレガシオンに合格した。
同年9月にル・ピュイの女子高等中学の哲学教師に任命され、組合活動を本格化させた。定められた教科計画に従わず、丸暗記ではなく自分の頭で理解することを重視したため、管理者には頭の痛い存在だった。失業者の陳情に同行したことが地元の保守紙に「赤い処女」の煽動と書かれ、赴任一年目で転任を命じられた。1932年にはナチスが躍進したドイツを旅行して強い衝撃を受けた。1934年冬から翌年夏まで、休暇を取って複数の工場で未熟練工として8か月間働き、疲弊してポルトガルへ行ったとき、寒村の夜に初めてキリスト教との「接触」を得た。1936年8月にはスペイン内戦の義勇軍に加わったが、沸騰していた油に足をつっこんで大やけどを負い、離脱した。1937年にイタリア旅行をした際、アッシジの礼拝堂で、何か自分より強いものに強いられて、生まれて初めてひざまずいた。
頭痛の悪化で教師生活を終え、1940年にドイツ軍がパリに入る前に両親とパリを脱出した。1942年5月に両親とアメリカに渡ったが、フランスを離れたことをすぐに後悔し、4か月後に単身ロンドンへ渡って、自由フランスの本部で文書起草委員となった。1943年8月24日、イギリスのケント州アシュフォードでほぼ無名のまま客死した。34歳だった。戦後、ノートを編集した箴言集『重力と恩寵』が出版されてベストセラーとなり、カミュらが遺稿を編集・出版するにつれて、その思索への評価が高まった。
同じ年に亡くなった人物
- ニコラ・テスラ (1943年没)
- ゾフィー・トイバー=アルプ (1943年没)
- マースデン・ハートレー (1943年没)
- メアリー・ラスバン (1943年没)
- ウラジーミル・ココツェフ (1943年没)
同じ地域に関係する人物
- スティーブン (イングランド王) (1154年没)
- ダグラス・ロウ (1981年没)
- コンスタンス・ガーネット (1946年没)
- チャールズ・モンタギュー・ダウティ (1926年没)
- ウィリアム・テンプル (1944年没)