伝記
ニコライ・イヴァノヴィッチ・ヴァヴィロフは、1887年11月25日、モスクワの商家に生まれたロシア帝国・ソビエト連邦の植物学者、遺伝学者である。弟は物理学者となったセルゲイ・ヴァヴィロフで、正教会の厳しい家庭に育ちながら、本人は無神論者だった。父は不作と食糧配給が続くなかで貧しい少年時代を過ごしており、ヴァヴィロフも幼いころから飢饉をなくすことに取りつかれていたという。1906年にペトロフスカヤ農業アカデミーに入学し、ポケットにペットのトカゲを入れて歩くことで知られた。1910年に、カタツムリの害を扱った論文で卒業し、1911年から翌年まで応用植物学研究所と植物病理学研究所に勤務した。1913年から翌年にかけてヨーロッパを旅し、「遺伝学」の命名者ウィリアム・ベイトソンのもとで植物の病害抵抗性の研究を行った。
1917年にサラトフ大学農学部の教授となり、1919年にはコムギのさび病に対する抵抗性を研究し、1920年には栽培植物の「平行変異説」で注目された。1921年、ペトログラードの応用植物学研究所(のちの連邦植物栽培研究所)の所長となり、1926年にレーニン賞を受賞した。1930年代にはモスクワのソビエト科学アカデミー遺伝学研究所所長や連邦地理学会会長などの要職を兼ね、ソビエトの作物改良研究の責任者となった。
彼は、食糧を安定して確保するためにも多様な遺伝資源の確保が肝要だと考え、世界各地への大規模な調査旅行を重ねた。最初の1916年の探検はイランへ向かい、ロシアにとって新しいマメ科作物の種子を171点集めた。この成果から、多くの栽培植物が南西アジアに起源を持つと考えるようになった。のちには中央アジア、アフガニスタン、日本、台湾、地中海沿岸、エチオピア、北米、中南米などへ赴いた。1929年には中国、日本、朝鮮を訪れ、日本でも栽培植物の別の中心地を見いだしている。京都では木原均に会い、「栽培植物の起源」と題して英語で講演した。調査の結果、遺伝的多様性が高い地域がその作物の発祥地であると考え、栽培植物の起原の理論を発展させ、1927年にベルリンの国際遺伝学会議で発表した。研究所では世界最大の植物種子コレクションを創設し、1933年までに14万8000点以上の標本を集めた。研究の結果は『栽培植物発祥地の研究』にまとめている。
しかし同じ1930年代に、メンデル遺伝を否定するルイセンコが、スターリンの支持を得て勢力を拡大し、これに反するヴァヴィロフの学説を排撃した。1940年に「ブルジョア的エセ科学者」として解職・逮捕され、1941年7月に死刑を宣告されたが、20年の禁固に減刑された。1943年1月26日、サラトフの監獄で栄養失調のため死去した。種子コレクションのうち、ドイツ軍が占領した地域に保管されていたサンプルはナチス親衛隊の研究所に運び去られたが、中核であるレニングラードのものは、包囲戦にもかかわらず影響を受けなかった。標本の種や芋を守りながら餓死した研究員の話も伝えられている。ヴァヴィロフはスターリンの死後の1955年に名誉回復された。ソビエト科学アカデミーは、ヴァヴィロフ賞(1965年)とヴァヴィロフメダル(1968年)を創設した。
同じ年に亡くなった人物
- アリ・アガ・シキリンスキ (1943年没)
- ヨハン・ヨハンソン (発明家) (1943年没)
- クルト・フーバー (1943年没)
- 平山清次 (1943年没)
- クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト (1943年没)
同じ地域に関係する人物
- パーヴェル・ヤブロチコフ (1894年没)
- マリーナ・ラスコーヴァ (1943年没)
- イワン・ペトローヴィチ・ラリオーノフ (1889年没)
- ヘルヴァルト・ヴァルデン (1941年没)
- ニコライ・チェルヌイシェフスキー (1889年没)