伝記
クィントゥス・ホラティウス・フラックスは、古代ローマ時代の南イタリア出身の詩人である。一般には単にホラティウスと呼ばれる。紀元前65年12月8日に生まれ、紀元前8年11月27日に没した。アウグストゥスと同時代に生きたラテン文学黄金期の詩人で、ウェルギリウスと並んで評価され、アウグストゥス時代を代表する抒情詩人とされる。彼は六歩格の優雅な詩である『風刺詩』と『書簡詩』、辛辣な短長格の詩も手がけた。風刺詩人ペルシウスは、友人のように笑いながら相手の欠点を巧みに突く作風だと評している。修辞学者クインティリアヌスは、その頌歌集を、読むに値する唯一のラテン語の抒情詩と見なした。
生まれたのは、後にルカニア・ブルッティウムと呼ばれる地方にあったウェヌシアの町で、ルカニアとアプリアの境にある交易路の上に位置していた。周辺ではさまざまなイタリア系の方言が話され、それが彼の言語感覚を豊かにしたのではないかと言われる。父はおそらく、同盟市戦争でローマ人に捕らえられたウェヌシア人か、サムニウム戦争で捕らえられたサビニ人の子孫で、少なくとも生涯の一時期は奴隷であった。しかし有能な人物で、自由を得て社会的な地位を高めた。学校ではリウィウス・アンドロニクスの『オデュッセイア』などを学んだと思われる。ホラティウスは、自分が裕福な競売人の自由人の息子であると述べている。父は息子の教育に少なからぬ財産を費やし、ローマまで同行して勉学と品行を見守った。詩人はのちに『風刺詩』で、自分に欠点が少ないなら功績は父にあるとし、解放奴隷の子であることを恥じたことはないと書いており、ドイツの古典学者フレンケルはこれを、息子が父に捧げた最良の追悼と評した。母のことは詩に書いておらず、あまり知らなかったのかもしれない。
その後ローマを離れ、19歳のころ、当時の学問の中心地アテナイに着いて、プラトンの創設したアカデメイアで学んだ。アテナイはエピクロス派とストア派が優勢で、その理論と実践は、ウェヌシアから来た青年に深い印象を残した。彼はキケロの息子マルクスなど、ローマの名門の若者たちとも交わった。ギリシアの古い抒情詩の伝統に深く親しんだのも、このアテナイであったと思われる。やがて共和政軍の士官として、紀元前42年のピリッピの戦いで敗れた。その後、オクタウィアヌスの内政面の右腕であったマエケナスに気に入られ、新しい体制の代弁者となる。体制との関係については、優雅に身をかわして独立性を保ったとする見方もあれば、ドライデンのように「行儀のよい宮廷の奴隷」と評する見方もある。
作品は、紀元前35〜34年ごろの『風刺詩』第1巻、紀元前30年ごろの第2巻に始まり、紀元前23年ごろに『カルミナ』の第1〜3巻、紀元前21年ごろに『書簡詩』第1巻、紀元前11年ごろに『カルミナ』第4巻と『書簡詩』第2巻が続く。第2巻には、紀元前10〜8年ごろの『詩について』が含まれる。この書簡詩はアリストテレスの『詩学』と並んで古典主義詩論で重視され、その一節「詩は絵のように」は、のちに絵画にも拡大されて近世の詩論・絵画論に影響を与えた。また「征服されたギリシア人は、猛きローマを征服した」という有名な言葉を、書簡詩第2巻に残している。
同じ年に亡くなった人物
- ガイウス・マエケナス (紀元前8年没)
同じ地域に関係する人物
- アウレリア・コッタ (紀元前53)
- ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー (1651年没)
- ローマのラウレンティウス (258年没)
- フィリップ・フォン・ヘッセン (1980年没)
- 聖アグネス (304年没)