伝記
キャロル・ロンバードは、1908年10月6日、アメリカのインディアナ州フォートウェインに生まれた女優で、1930年代から40年代のコメディ映画で活躍し、「スクリューボール・コメディの女王」と呼ばれた。本名はジェーン・アリス・ピーターズで、裕福な家に生まれた。両親の折り合いが悪く、1914年10月に母が子どもたちを連れてロサンゼルスに移り、二人は離婚しなかったが別居は続いた。運動が得意で、テニスや水泳に取り組んだ。12歳のとき、野球をしているところを映画監督のアラン・ドワンの目に留まり、母の励ましもあって、メロドラマ『完全犯罪』(1921年)で映画に初出演した。
15歳のとき、高校の五月祭の女王に選ばれたところをチャップリンの関係者に見いだされ、『黄金狂時代』の撮影テストを受けたが、役は得られなかった。1924年10月、16歳でフォックス社と契約し、学校をやめて映画の道に進んだ。姓もこのとき、家族の友人にちなんで改められた。しかし端役ばかりで、1年ほどで契約が切れた。1927年9月、当時の恋人とドライブ中に事故に遭い、割れたフロントガラスが鼻から左頬の下を切り裂いて、顔に傷が残った。後年、契約解除の原因はこの事故だと本人が語り、死後数十年はそう信じられたが、実際にはフォックスとの契約解除は事故の2年前だった。契約していたマック・セネットは彼女の美貌と才能を評価し、傷を気にせず契約を続けて、1927年から1929年にかけて、短編コメディ約15本に出演した。
1930年にパラマウント社と7年間の長期契約を結んだ。折しもサイレントからトーキーへの移行期で、セクシーな声と知的でコケティッシュな魅力を持った彼女は徐々に頭角を現した。1931年に年上の俳優ウィリアム・パウエルと結婚したが、性格が合わず、二人は1933年に円満に離婚した。同じ1934年、ハワード・ホークス監督のコメディ『特急二十世紀』に出演し、ヒットによってコメディエンヌとしてスターの座をつかんだ。『マイ・マン・ゴッドフリー』(1936年)ではアカデミー主演女優賞にノミネートされ、元夫のパウエルと共演している。ヒッチコックやルビッチの作品にも出演し、遺作はルビッチ監督の『生きるべきか死ぬべきか』(1942年)となった。
1937年にはパラマウントとの契約を更新せずに退社した。1936年1月から付き合い始めた恋人クラーク・ゲーブルとの交際に専念するためで、フリーなら仕事を選べるという理由もあった。ゲーブルには長年別居中の年上の妻がいたため、不倫と見られて、ゴシップ記者や大衆から激しい非難を浴びた。それでも二人は、芸能界を引退に追い込まれても一緒になる覚悟で、1939年に結婚した。なかなか子宝に恵まれない辛さはあったが、短い結婚生活は、ゲーブルの生涯の中で最も幸せなひとときだったという。
第二次世界大戦中は、戦争に関連した銃後の支援や慈善活動に力を注いだ。1942年1月16日、戦時国債キャンペーンのためインディアナにいた彼女は、ロサンゼルスへ戻る途中、搭乗した飛行機がラスベガス近郊のポトシ山に墜落し、33歳で母とともに亡くなった。搭乗の直前にファンに向けて「私と一緒に支援活動に参加してください!」と呼びかけたのが、最後の言葉だった。落胆したゲーブルは映画界を一時退いて従軍した。のちに二度再婚したが、1960年に亡くなると、遺言により「キャロル・ロンバード・ゲーブル」と刻まれたロンバードの墓の隣に埋葬された。ルーズベルト大統領は、その活動をたたえて大統領自由勲章を死後に授与した。
同じ年に亡くなった人物
- ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク (1942年没)
- カールリス・ウルマニス (1942年没)
- グスタフ・フォン・セイファーティッツ (1942年没)
- ヒーバー・ダウスト・カーチス (1942年没)
- ダニイル・ハルムス (1942年没)