伝記
フランツ・ボアズは、1858年7月9日に生まれ、1942年12月21日に没したドイツ生まれのアメリカ合衆国の人類学者である。
ドイツ連邦のヴェストファーレンのミンデンで、ユダヤ人の家に生まれた。近代化に理解のあるキリスト教の家であったが、反抗して入信しなかった。フレーベル幼稚園に通った後、ギムナジウムに入った。植物の分布を研究するなど地誌や地理に興味をもっていたが、後に数学と物理学を好むようになった。進学のためキールのグスタフ・カルステンのもとで物理学を習い、正規分布のガウスの法則を研究しようとしたが、カルステンの指示でしぶしぶ変更し、水の光学的性質について研究した。1881年に博士号を得た。ハイデルベルクでクーノ・フィッシャーの審美学の講義をとったのをきっかけにカント思想に凝り、ボンではカント哲学の大家ベンノ・エルドマンの講義を受けた。その後、心理物理学に傾心し、ベルリンでヘルムホルツのもとで学んだが、徒労に終わったという。学生時代に教わったテオバルト・フィッシャーがキールに引っ越してくると、地理学を講習した。そのころ学界では、文化の差異は何に由来するかをめぐり、風土や環境が主因とする立場と、移住による概念の伝播が重要とする立場に分かれて論争していた。1883年にその調査のためバフィン島に赴き、ベルリンに帰ったのち、1886年に発表して指導教官の資格を得た。
バフィン島の調査をきっかけに非欧米の文化に関心をもち、1885年にルドルフ・ウィルヒョーらのいるベルリンの民族博物館に移った。その後、アメリカに渡る機会を得て、ニューヨークで雑誌の編集の手伝いを頼まれた。その体験から、ユダヤ人であることで冷遇されないアメリカへの移住を決意し、1887年にニューヨークで市民権を得た。1888年にクラーク大学に就職したが、人類学の学部がなく、学長ホールに嫌がられたこともあって、待遇はよくなかった。1893年のシカゴ万国博覧会では助手を務めた。1896年にコロンビア大学の講師になり、1899年に教授に昇進した。分立していた学部の統合の申し出がかなって、アメリカで最初の人類学の博士課程が設置された。関連する分野をまとめるアメリカ人類学会の設立にも尽力し、1902年にはマクジーが会長、ボアズが副会長になった。人類学の四部門として、自然人類学、言語学、考古学、文化人類学を掲げた。
ネイティブアメリカンの諸言語の研究を行い、当時の研究者の風潮、つまり関係のない事例を取り上げて先住民は遅れているとする考え方に反対して、文化相対主義を唱えた。1889年の論文「交替する音について」では、先住民は同じ単語に毎回違った発音をするのは不合理だから遅れている、という論に対し、音素の変異の概念をもって反論した。同じ音を違うように聞き取っているにすぎないというのである。
弟子には、アルフレッド・クローバー、ロバート・ローウィ、エドワード・サピア、ポール・ラディン、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、ゾラ・ニール・ハーストンらがいる。ベネディクトは日本関連の著書『菊と刀』で有名であり、サピアは「サピア・ウォーフの仮説」で、ハーストンは黒人女性作家の先駆者として知られる。ウィリアム・ジョーンズはネイティブ・アメリカン出身の人類学者であった。著書に『未開人の心性』『人種、言語、文化』などがある。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルク・シュトゥンメ (1942年没)
- アドルフ・ヒューンライン (1942年没)
- エミール・フォン・ザウアー (1942年没)
- グラント・ウッド (1942年没)
- 清浦奎吾 (1942年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・レノン (1980年没)
- Elizabeth Allen (2006年没)
- サルヴァトーレ・マランツァーノ (1931年没)
- パトリック・フリン (1969年没)
- ピーター・ストラウブ (2022年没)