伝記
サー・ウィリアム・ヘンリー・ブラッグは、1862年7月2日に生まれ、1942年3月12日に没したイギリスの物理学者である。1915年に「X線による結晶構造解析に関する研究」により、息子のウィリアム・ローレンス・ブラッグとともにノーベル物理学賞を受賞した。
1862年、カンバーランドのウェストワードで生まれた。父は商船の幹部船員で農場も経営しており、母は牧師の娘であった。7歳のときに母が亡くなり、レスターシャーのマーケット・ハーバラに住む叔父に育てられた。マン島のキング・ウィリアムズ・カレッジで学び、奨学金を獲得してケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進み、特に数学で優秀な成績を収めた。1885年、23歳のとき、アデレード大学の数学と実験物理学の教授という職を提供され、1886年初めごろから働き始めた。数学者としては優秀だったが、このころの物理学の知識は、応用数学との関連で得た程度しかなかった。アデレードで物理学を受講する者は百人ほどで、理学部の学生はその一握りだった。教育設備の不足を補うため、自ら器具製作者に弟子入りした。講師としても優れ、学生の自治会結成を促し、科学系の講師にも無料で講義を受けさせた。趣味はテニスとゴルフで、大学のラクロス部の創設にも関わり、南オーストラリア州にラクロスを紹介した。水彩画家だった女性と出会い、1889年に結婚し、長男のウィリアム・ローレンスは1890年に生まれた。他に女児1人と男児1人をもうけ、次男ロバートはのちにガリポリの戦いで戦死した。
物理学にも興味を持ち、特に電磁気学に引かれていった。1895年には、ニュージーランドからケンブリッジに向かう途中のアーネスト・ラザフォードが訪れ、その後は生涯の親友となった。1896年5月には、地元の医師たちの前でX線を実演し、自分の手を撮影した。1897年9月には、オーストラリアで記録に残る最初の無線電信の公開実験を、アデレード大学で行っている。経歴の転換点は、1904年に、オーストラレーシア科学振興協会の部会の代表に選ばれたことで、気体のイオン化の理論を発展させたことが評価されてのことだった。その後の3年間でさらに成果を上げ、ロンドンの王立協会のフェローに選ばれた。1904年にはラジウムの放射線についての論文も発表している。1908年末にイングランドへ帰国した。オーストラリアでの23年間に、アデレード大学の学生数はほぼ4倍に増えており、理学部の発展に大いに貢献した。
1909年にリーズ大学の物理学教授に就任し、X線の研究を続けた。X線分光器を発明し、1913年にはケンブリッジ大学の学生だった息子ウィリアム・ローレンス・ブラッグとともに、結晶間隔とX線の回折の関係を定式化したブラッグの法則を見出した。この式は、結晶構造のX線解析の基本となるものである。1914年以降、親子は戦争に関わる仕事をするようになり、父は潜水艦探知技術の開発に関わった。1915年に、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの物理学教授となったが、実際に就任したのは大戦の終了後である。1923年には英国王立研究所の化学の教授となり、研究所の所長を務めて、1929年から30年にかけて改革に乗り出した。1929年に妻が亡くなり、本人は1942年にロンドンで亡くなった。1935年から1940年まで王立協会の会長を務めた。1932年に発見された白金の硫化鉱物は、X線回折で初めて発見された鉱物であることから、ブラッグ親子にちなんで命名された。
同じ年に亡くなった人物
- エクトール・ギマール (1942年没)
- エミール・フォン・ザウアー (1942年没)
- コンスタンチン・バリモント (1942年没)
- ダニエル・アロミア・ロブレス (1942年没)
- ホアキン・サンチェス・デ・トカ (1942年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェームス・メラート (2012年没)
- デイヴィッド・スターリング (1990年没)
- スタンレー・モリソン (1967年没)
- カール・フリードリヒ・アーベル (1787年没)
- ジョン・マチン (1751年没)