伝記
ファサエルは、ユダヤのヘロデ朝に属する王子である。紀元前40年に没したとされる。ハスモン朝の王国に、エドム(イドマヤ)系のユダヤ人貴族の家の子として生まれた。父アンティパトロスはハスモン家の王ヒルカノス2世の側近で、母キュプロスはナバテア人の王女であった。弟がのちのヘロデである。
兄弟はともに父のもとで経歴を始めた。アンティパトロスはユリウス・カエサルによってローマ共和国のユダヤ総督に任じられており、ファサエルをエルサレムの統治者に、ヘロデをガリラヤの統治者にした。ヘロデが最高法院に召喚されて裁かれることになったとき、ヘロデは軍を率いてエルサレムに行き、戦おうとした。しかしアンティパトロスとファサエルは説得し、武力で脅すだけで満足させたという。カエサルの暗殺後、アンティパトロスと息子たちは、シュリア総督カエキリウス・バッスス、のちにはカッシウスに従い、ファサエルは課された貢納のうち100タレントを納めた。のちアンティパトロスはマリコスに毒殺されたとされる。
紀元前41年ごろ、ビテュニアにいたマルクス・アントニウスのもとに、多くのユダヤ人から憎まれていた兄弟を訴える声が寄せられた。だが抜け目のないヘロデは訴えを退けさせた。最高法院は兄弟の統治に納得できず、アンティオキアでアントニウスに再び訴えたが、このときも訴えは実を結ばなかった。弱腰とされたヒルカノス2世さえも二人のために弁護したのである。アントニウスは二人を分封領主(テトラルケス)に任命した。ヘロデがアントニウスに多額の金を渡して弁明を避けたともいわれる。
そのころハスモン家のアンティゴノスがユダヤの王位を奪おうとしており、エルサレムでは彼の家臣たちと兄弟の家臣たちが何度も衝突した。とくにシャブオット(七週の祭り)の時期は危険で、ファサエルは城壁を、ヘロデは宮殿を守って敵を退けた。するとアンティゴノスはパルティア帝国の助けを求め、紀元前40年のポンペイウス派とパルティアの侵攻が起こった。パルティアの将軍は、和平の話し合いのためとして、ファサエルとヘロデにパルティア軍の総督バルザファルネスの陣営へ来るよう誘った。ヘロデは拒んだが、ファサエルはヒルカノスとともに応じ、ヘロデの警告にもかかわらずおびき出された。やがて二人は囚われの身だと悟った。ヒルカノスとファサエルは捕らえられ、アンティゴノスに引き渡された。アンティゴノスはヒルカノスの身体を傷つけたが、ファサエルは自ら頭を打ちつけて命を絶ち、その屈辱を免れた。死ぬ前に、弟ヘロデがエルサレムから脱出して無事だと知り、それを満足に思ったという。
歴史家ヨセフスは、ファサエルを勇敢で高貴な人物と述べている。同じファサエルという名の息子がいたが、父の死後に生まれたらしい。この息子はヘロデの娘サランプシオと結婚し、5人の子をもうけた。ヘロデは側室パラスとのあいだの息子にもファサエルと名づけ、兄の記憶をたたえて、エリコの北東の町を「ファサエリス」、エルサレムの宮殿の塔を「ファサエルス」と名づけた。一方、逃れたヘロデはナバテアの王に冷遇されたのち、アレクサンドリアを経てローマに入り、アントニウスとオクタウィアヌスに歓迎され、元老院の全員一致でユダヤ王と宣言された。その後ローマ軍の支援を得てエルサレムを包囲し、5か月で陥落させた。ファサエルの孫娘の一人キュプロスは、のちにバタネア王、さらにユダヤ王となる人物と結婚し、4人の子をもうけたという。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・ラビエヌス (紀元前39年没)
- アレクサンドロス・ポリュヒストル (紀元前 39年)
- ルキウス・アントニウス (紀元前 39年)
- Quintus Salvius Salvidienus Rufus (紀元前 39年)
- Cornificia (紀元前39)
同じ地域に関係する人物
- ヘゲシッポス (180年没)
- Artuk Bey (1091年没)
- レオポルド・トレッペル (1982年没)
- イェフダー・アルカライ (1878年没)
- ボードゥアン2世 (エルサレム王) (1131年没)