HISTORICAL PERSON · 1940年没

ニコライ・エジョフ

ソ連の政治家。スターリンのもとで内務人民委員部の長官として大粛清を指揮し、1937年から38年に150万人が逮捕された。のち失脚し、1940年に銃殺された。

生涯
1940年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
リトアニア共和国(カウナス)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフは、1895年5月1日に生まれたソ連の政治家で、スターリンの指導のもと内務人民委員部の長官として、1936年から1938年にかけての大粛清を指揮した人物である。1937年は大粛清を象徴する年となり、「エジョフの時代」と呼ばれた。公式の略歴では、サンクトペテルブルクの鋳物工場で働く労働者の家に生まれたとされる。しかし、のちの尋問で彼は、父は酒場や売春宿を営んでおり、プロレタリアートらしく見せるために出自を偽ったと述べた。ただし、この自白は強要された可能性もある。歴史家パヴリューコフによれば、父イヴァンはトゥーラ州の村の出身で、軍楽隊員としてカウナスに駐屯し、除隊後にリトアニア人女性と結婚した。

一家はマリヤンポレに移り、ニコライは小学校に3年間通い、1906年にはサンクトペテルブルクの親戚のもとに預けられて仕立ての技術を学んだ。公式略歴は1911年からプチロフ工場で錠前工の見習いをしたとするが、実際に働いた証拠はない。1913年に国外へ出て東プロイセンのティルジットに住み、1915年6月にロシア帝国陸軍に入隊した。身長が151センチメートルと小柄で兵役に不適格と判断され、砲兵工房で警備にあたり、「兵士の中で最も読み書きができる」として書記官に任命された。戦闘には加わらず、1917年3月の革命で帝国軍が崩壊すると「自己復員」した。軍に所属したまま1917年5月にロシア社会民主労働党に入党したと称したが、入党の日付は書類ごとに食い違い、パヴリューコフは文書から1917年8月3日と指摘している。

1919年4月に赤軍に召集され、無線電信の部隊で無線技師や電気技師の訓練を受けた。1921年7月にアントニーナ・チトヴァと結婚してモスクワに移る。1922年2月、共産党中央委員会組織局の決定でマリ自治州の地方委員会書記長に派遣された。最低限の読み書きができる人材が不足しており、「知性のある労働者」と判断されたのだった。だが、地元の首長たちと衝突し、10月に休暇に出かけたまま二度と戻らなかった。1923年からは、カザフスタンのセミパラチンスク州党委員会の書記長などを務めた。カザフ人の共産主義者のうち、極左的または右傾的に逸脱したとみなした者を容赦なく排斥し、民族主義者を無力化した手腕をスターリンに評価された。

1928年にシベリアを視察したスターリンに、カザフスタンの農業に詳しいと自己紹介し、1929年11月に農業人民委員代理に任命された。農業集団化やクラーク絶滅作戦を実行するため、全権委員を選んで地方に派遣する役割を担った。1930年11月にスターリンと出会って側近となったが、このころにはアルコール依存症になっていたという。1934年2月に党中央委員会の組織局員などに任じられ、1934年12月にキーロフが殺されると、スターリンの指令で捜査を指揮し、カーメネフ、ジノヴィエフ、トロツキーの関与と結論づけたが、この告発は虚偽であった。1936年8月には第一回モスクワ裁判を監督し、被告を自白に追い込む手段にこだわり、逮捕者を尋問する際には拷問にかけた。

そののち、前長官ヤゴーダや多くの古参ボリシェヴィキ、軍幹部を粛清した。1937年から1938年に150万人が逮捕され、68万1692人が処刑された。だが、部下の高官が亡命したことなどでスターリンの寵を失い、1939年に後任の長官ベリヤに告発された。1940年2月4日に銃殺刑に処せられ、1998年にはロシア連邦最高裁判所が名誉回復を否定した。

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