伝記
クレメンティア・フォン・ハプスブルクは、ローマ王ルドルフ1世とその最初の妃ゲルトルート・フォン・ホーエンベルクの娘で、ナポリ王家のカルロ・マルテッロの妃となり、名目上のハンガリー王妃と呼ばれた女性である。1262年ごろ、ドイツ南西部のラインフェルデンで生まれたとされる。父は、かつては取るに足らない貴族だったが、1273年にローマ王に選ばれて、ハプスブルク家を神聖ローマ帝国の権力の座に押し上げた。姉妹のユーディトは、ボヘミア王ヴァーツラフ2世に嫁ぎ、10人の子をもうけた。
1275年10月、クレメンティアの結婚は父と教皇グレゴリウス10世によって取り決められた。相手は、父の同盟者であるシチリア王カルロ1世の孫カルロ・マルテッロで、縁組はこの同盟を確かなものにするためであった。カルロ・マルテッロは、ナポリ王カルロ2世と、ハンガリー王ラースロー4世の妹マリアの長男である。二人は1281年1月8日に結婚した。式はウィーンで行われたともいわれ、3月初めにクレメンティアはイタリアに到着した。
1288年に長男カーロイが、1290年に長女ベアトリスが生まれた。同じ1290年、夫は教皇の支持を得てハンガリー王位を主張した。母方の叔父であるラースロー4世が跡継ぎを残さずに亡くなっていたからである。だがハンガリーの貴族たちはアールパード家の血を引くアンドラーシュ3世を支持し、夫は王国を治めることができなかった。それでも夫はクロアチアの一部で権利を認めさせることに成功し、クロアチアはその後ハンガリーと同君連合になった。1293年には末子の次女クレマンスが生まれた。
クレメンティアの没年は、1293年とも1295年ともいわれる。1293年の2月7日または10月7日に、末子の出産に関わって亡くなったとする説と、1295年に夫の死から数か月後に、夫と同じ疫病で亡くなったとする説がある。夫のカルロ・マルテッロは1295年に父に先立って没し、王位に就くことはなかった。長女ベアトリスは1296年にヴィエノワ太子ジャン2世と結婚した。1301年にアンドラーシュ3世が亡くなった後、長男のカーロイが王として戴冠し、同じく一時王となったボヘミア王ヴァーツラフ3世とバイエルン公オットー3世を抑えて権力を保ち、1308年から1342年まで国を治めた。次女クレマンスは1315年にフランス王ルイ10世の妃となり、一人の息子ジャン1世をもうけた。
同じ年に亡くなった人物
- アイラス・ヌネス (1293年没)
- ヴァフタング2世 (1293年没)
- ガンのヘンリクス (1293年没)
- アシュラフ・ハリール (1293年没)
- オビッツォ2世・デステ (1293年没)
同じ地域に関係する人物
- Franz Brunner (1991年没)
- フリードリヒ3世 (オーストリア公子) (1362年没)
- アンナ・デ・メディチ (1616-1676) (1676年没)
- バルタザール・フープマイヤー (1528年没)
- オットー・カイザー (1977年没)