伝記
クルタナガラは、ジャワ島のシンガサリ王国の最後にして最大の王である。正式にはシュリー・マハーラージャーディラージャ・シュリー・クルタヌガラ・ウィクラマ・ダルマトゥンガデワと称し、クルタヌガラ、クリタナガラ、シヴァブッダなどの名でも呼ばれる。生年は伝わらず、1292年に亡くなった。シンガサリは、初代の王が1222年にクディリ王国を倒して以来、ジャワ島を中心に勢力を広げてきた王朝である。クルタナガラはその第5代の王で、先代ウィシュヌワルダナ(在位1248年〜1268年)の子だった。1254年から副王として父の統治を支え、1268年に父が亡くなると、すぐに王位を継いだ。信仰はヒンドゥー教と仏教を融合させた神秘的なタントラ教で、自らをシヴァ神とブッダが一体となった神の化身であると称した。多くの宗教行事を取り仕切り、在位中に関連する彫像や銘板を残している。1270年にはカラヤジャが、1280年にはマヒシャ・ランカーが反乱を起こしたが、いずれも鎮圧された。
クルタナガラの治世に、シンガサリは最盛期を迎えた。勢力はスマトラ島、マレー半島、バリ島に及び、モルッカ諸島との香辛料貿易への関わりも深めた。彼はジャワ島の外に領土への野心を示した最初の支配者であり、1284年には隣のバリ島を服属させた。チャンパ王国をはじめとする東南アジアの諸地域との同盟も結んだ。治世の後期には、スマトラ島東部のムラユ王国を支配下に置く遠征を行い、スンダ王国も同様に従えたと推測され、マラッカ海峡一帯の覇権を握ることに成功した。マドゥラ島やボルネオ島からも、服従を申し入れる地域が出た。
1289年、元の皇帝クビライは使者を送り、シンガサリに朝貢を迫った。クルタナガラはこれを許されない要求とみなして使者を拘束し、顔に焼き印を押し、耳を切り落とした姿で送り返した。元が報復の軍を送るのは目に見えていたため、支配の強化を図り、1290年ごろには、シュリーヴィジャヤ王国の後継であるジャンビを征服するため、スマトラへ軍を出した。しかしジャンビは、すでに元と良好な関係を築いていた。クビライは1292年に、クルタナガラを処断するための懲罰的な海上遠征を命じた。
ところが元軍の艦隊が着く前に、政変が起こった。旧クディリ王家の血を引き、最も強力な臣下の一人だったジャヤカトワンが、主君に反旗を翻したのである。軍勢の大半はスマトラ遠征に出ており、守りは手薄だった。ジャヤカトワンは陽動の部隊をジャワ島北東部に送って残る軍をおびき寄せ、首都を空にして攻め込んだ。クルタナガラは1292年の5月か6月ごろ、多くの廷臣とともに宮殿で殺された。ジャヤカトワンは自らがジャワの支配者であると宣言し、クディリ王国の再興を唱えた。
生き延びた親族に、摂政アルヤ・ウィララジャにかくまわれてマドゥラ島へ逃れた義理の息子ウィジャヤがいた。ウィジャヤはやがて元の遠征軍と手を結んでジャヤカトワンを倒し、そのあと元との同盟を裏切って軍勢をジャワから追い払い、マジャパヒト王国を建てた。クルタナガラに男子の跡継ぎはなかったが、ウィジャヤの妻となった娘ガヤトリを通じて、マジャパヒトの王家の祖先とされる。ガヤトリと孫娘は、王女ながらマジャパヒトを統治したとされる。曽孫ハヤム・ウルクは王国を最盛期に導いた。子孫はクルタナガラを、マハクソービャ・ブッダとして称えた。
同じ年に亡くなった人物
- Abraham Abulafia (1292年(推定))
- キンガ (ポーランド王妃) (1292年没)
- グリエルモ7世 (1292年没)
- Thibaud Gaudin (1292年)
- ギラウト・リキエル (1292年)
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