伝記
オットー・ランクは、1884年4月22日、ウィーンにユダヤ系のローゼンフェルト家の末子として生まれたオーストリアの精神分析家である。ランクという名はもとペンネームで、イプセンの戯曲『人形の家』の登場人物ランク博士から取ったといわれ、1909年3月に正式な名前として採用された。機械商として働いていたが、フロイトの著作に出会って精神分析に関心を抱き、のちにフロイト本人と知り合って、この道に進んだ。
1903年から1905年にかけては、ノートに批評や自作の詩を書き綴り、ダーウィンやニーチェ、イプセンらを読んでいたことがうかがえる。1905年、21歳のときに論文『芸術家』をフロイトに送った。アドラーが仲立ちしたと推測されている。才能を見抜いたフロイトは、医学系以外の大学に進むことを勧めるとともに、発足したばかりの心理学水曜会の書記・秘書役に採用した。ランクは精神分析運動で報酬を受けた最初の一員となり、約20年にわたってフロイトの右腕を務めた。1908年からウィーン大学でドイツ文学と古典文献学を学び、フロイトの経済的援助を受けながら、1912年に哲学博士の学位を得た。
1906年から1916年までは二人の蜜月時代で、親密な仲のなかで共同の仕事もした。1909年に出版したランクの『英雄誕生の神話』には、フロイトの寄稿がある。1914年刊の『夢判断』第4版では、ランクが二つの章を担当し、この版から1929年まで表紙に共著者として名が記された。1912年にフロイトは精神分析学会の中核として秘密の「委員会」を結成し、ランクはアブラハム、フェレンツィ、ジョーンズ、ザックスとともに当初のメンバーに選ばれた。医学の学位を持たないのは、ランクとザックスだけだった。1915年から1918年には国際精神分析協会の初代幹事を務めた。第一次世界大戦が始まると兵役訓練に取られたが、編集の腕を買われ、1916年からの2年間、ポーランドで軍隊新聞の編集をした。
実の父子以上に信頼し敬愛し合ったフロイトとの関係が悪化するのは、1919年にウィーンへ戻ってからである。ランクは、ウィーンに住むこともあって「委員会」の中でとくにフロイトに近く、他のメンバーの羨望を受ける立場にいた。さらに、ランクの理論は根幹でフロイトの理論と異なっていた。フロイトが父と息子の関係に焦点を置いたのに対して、ランクは母と子の関係に注目し、誕生に始まる死への恐れと不死への欲求を人間の実存的な問題と考えた。1924年に刊行した『出生のトラウマ』は、エディプス期より前の段階の分離不安を論じ、エディプス・コンプレックスが至高の原因ではないかもしれないと示唆した初めての著作だった。フロイトは最初、これを「精神分析の発見以来もっとも重要な進歩」と評したと伝えられるが、評価は賞賛と保留のあいだで揺れた。委員会のアブラハムとジョーンズは、ランクの理論がフロイトの理論を否定するものだと見抜いて強く批判し、強硬派に説得されたフロイトも最終的に賛同した。
ランクは抗議して、ウィーン精神分析学会の副会長や出版社の役職などを辞し、1926年にパリへ移った。1936年にはニューヨークに腰を据えた。1939年10月31日に亡くなるまでの14年間、フランスとアメリカで、講義や著作、心理療法に精力的に取り組んだ。ロロ・メイはランクに影響を受け、1936年にはカール・ロジャーズがランクに一連の講義を依頼しており、ロジャーズのクライエント中心療法にも、その考え方が大きく影響したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ステファン・サルコチッチ・フォン・ロヴチェン (1939年没)
- グリゴリー・ソコリニコフ (1939年没)
- マティアス・シンデラー (1939年没)
- ロイス・ウェバー (1939年没)
- ダニロ・ペトロヴィチ (1939年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョージ・コーテルユー (1940年没)
- マーサ・プレイス (1899年没)
- ジョージ・ケナン (探検家) (1924年没)
- レイチェル・フラー・ブラウン (1980年没)
- オイゲン・シュフタン (1977年没)