伝記
アントニオ・マチャードは、1875年7月26日、スペインのセビリアで、兄マヌエルの11か月後に生まれた詩人である。8人きょうだいの1人で、母はアナ・ルイス、父アントニオ・マチャード・アルバレスは弁護士でジャーナリスト、民間伝承の研究者でもあり、「デモフィロ」の筆名で国際的に知られた。祖父は医師で博物学者、セビリア大学の学長も務めた人物で、一家は同じ館の別々の住居に暮らしていた。セビリアでの子ども時代は、のちに多くの詩のなかで思い起こされる。1883年、祖父がマドリードの中央大学で教授の職を得たため、一家は首都へ移った。子どもたちは自由教育学院に入り、のちに詩人となる兄マヌエルと一緒に、文学に目覚めた。教師にはジネル・デ・ロス・リオスらがいた。
1889年には中等教育の入学試験で地理には受かったが、ラテン語とカスティーリャ語を落とした。家の暮らしは苦しく、1892年に父が弁護士の職を求めてプエルトリコへ渡ったが、財を成せず、結核のため1893年に世を去った。1896年には祖父も亡くなり、一家は経済的に行き詰まった。学位を取ったが、金がなかったので役者などの仕事もした。1899年、兄とともに出版社の翻訳家として働くためにパリへ行き、ジャン・モレアス、ポール・ヴェルレーヌらフランスの象徴詩人や、ルベン・ダリオ、オスカー・ワイルドと知り合い、詩に生涯を捧げる決意をした。
1901年に文学雑誌で最初の詩を発表し、1903年に処女詩集『孤独』を出した。その後数年かけて改訂し、一部を削って多くを加え、1907年に決定版を発表した。同年にはソリアの学校のフランス語教授となり、下宿の大家の娘レオノール・イスキエルドと出会った。1909年、34歳のマチャードは16歳のレオノールと結婚した。1911年にパリへ移ってフランス文学と哲学を研究したが、夏にレオノールが結核と診断されてスペインに戻り、一年後に彼女は亡くなった。詩集『カスティーリャの野』が出た直後のことだった。憔悴した彼はソリアを去り、二度と戻らなかった。アンダルシア地方のバエサに1919年まで住み、そこでレオノールの死を扱った詩を書いて決定版の『カスティーリャの野』に加え、1916年に『新しい歌』を出した。初期の華麗なモダニズムの作風は、シンプルなものに変わっていった。
1919年から1931年までは、セゴビアの学校でフランス語を教えた。兄マヌエルの住むマドリードに近く、週末には会って、大衆に人気の芝居に取り組んだ。この間に、3人の子を持つ既婚女性ピラール・バルデラマと恋に落ち、作品に彼女を「ギオマール」として登場させた。1932年にはマドリードの学校の教授になった。1936年にスペイン内戦が始まるとマドリードにいた。兄は国民軍側についたので別れ、母と伯父とともにバレンシア地方に避難し、1938年にバルセロナへ移った。フランコの勝利が決まると国境を越えてフランスのコリウールに住み、1939年2月22日に世を去った。3日後に母も亡くなった。ポケットからは、最後の詩「この青い日々、この幼い日の太陽」が見つかった。彼は「98年世代」の主要な詩人の1人であり、のちにオクタビオ・パスらにも影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
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- 朴泳孝 (1939年没)
- 泉鏡花 (1939年没)
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- オットー・ベルグ (1939年没)
同じ地域に関係する人物
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- エドゥアール・シャットン (1947年没)
- ウリバ (1046年没)
- ピエール・クロステルマン (2006年没)