伝記
ジークムント・フロイトは、1856年5月6日、オーストリア帝国領モラヴィアのフライベルク(現在のチェコ)で、ユダヤ人の毛織物商ヤーコプ・フロイトの息子として生まれた。母はブロディ出身のアマーリア・ナータンゾーンである。生まれたときの名はジギスムント・シュローモ・フロイトといい、モラヴィアの伝説の王とユダヤの賢人王ソロモンにちなむとされるが、21歳のときに改めた。家族は1859年にウィーンへ移り、1866年にシュペルル・ギムナジウムに入学した。1873年にウィーン大学に入り、物理などを学んだ後、医学部のブリュッケの生理学研究所でカエルやヤツメウナギの脊髄神経細胞を研究した。脳性麻痺や失語症の臨床研究でも業績を残し、脳の神経活動として心理活動を解明することを志したが、当時の脳科学の水準では程遠いことにも気づいていた。1881年に大学を卒業し、翌1882年に後に妻となるマルタ・ベルナイスと出会った。非常に筆まめで、友人や婚約者、のちには弟子たちとも手紙を交わした。
1884年から2年間はコカインの研究に打ち込み、局所麻酔剤としての使用を着想して、友人の眼科医らと眼科手術に成功した。しかし1886年に常習性や中毒性が世界各地から報告されると、医学界から不審の目で見られるようになった。1885年、留学奨学金を得てパリに行き、ヒステリー研究で名高い神経学者ジャン=マルタン・シャルコーのもとで、催眠によるヒステリー症状の治療を学んだ。神経症は器質的な疾患ではなく機能的な疾患だとするシャルコーの説に触れ、のちの無意識という発想の下地を得た。帰国後の1886年に「男性のヒステリーについて」を発表したが、女性の病気とされてきたヒステリーが男性にも起こると認めない医学界から大きな反発を受けた。この年からウィーンで開業医として催眠による治療を実践し、1889年には催眠暗示で名高いナンシーに数週間滞在して治療者としての手本を学んだ。
その後、ヨーゼフ・ブロイアーと催眠カタルシスの共同研究を始めたが、すべての患者が催眠状態に入るわけではなく、回想の連鎖が幼児期の性的体験に行き着くことから、自由連想法を発想した。これを精神分析と名づけ、性的病因説と抑圧理論という基礎理論が作られていった。1895年にはヒステリーの原因は幼少期の性的虐待の結果だとする病因論を発表した。1896年に父が82歳で亡くなり、強い衝撃を受けた彼は、友人ヴィルヘルム・フリースを分析者に自己分析と夢分析を行い、母への愛情と父への敵意と罪悪感を自分の中に見出した。これがエディプス・コンプレックスの理論につながる。フリースとは1902年の晩夏に決別した。やがて自我・エス・超自我からなる構造論と神経症論を確立した。終生無神論者で、宗教的なものを峻厳に拒んだため、後年にはアドラーやユングら多くの弟子たちと袂を分かつことにもなった。
1900年に出た『夢判断』は600部が刷られたが、売り切れるまで約8年を要し、1905年の『性に関する三つの論文』も悪評を浴び、ウィーンの理解者は皆無に等しかった。それでも1902年秋には「心理学水曜会」が始まり、1908年にウィーン精神分析協会となった。1907年に参加したスイスのユングに特別な期待をかけ、1909年にはユング、フェレンツィとともにクラーク大学の記念式典に出席し、博士号を授与された。1910年の国際精神分析学会創立時には、ユングを初代会長に就かせている。1939年9月23日に死去し、精神分析学の創始者として知られる。
同じ年に亡くなった人物
- ジナイダ・ライフ (1939年没)
- マチルダ・ハウエル (1939年没)
- Perikles Kakousis (1939年没)
- レオ・カール・フォン・エスターライヒ (1939年没)
- パーヴェル・ポスティシェフ (1939年没)
同じ地域に関係する人物
- ミック・カーン (2011年没)
- アンソニー・カロ (2013年没)
- リチャード・ホーキンス (1622年没)
- シリル・コノリー (1974年没)
- ジョン・オグドン (1989年没)