伝記
ボエモン7世は、十字軍国家のトリポリ伯で、名目上のアンティオキア公でもあった人物である。トリポリ伯としては、ボエモン4世と数えることもある。1261年に、アンティオキア公ボエモン6世と、その妃シビーユ・ダルメニーの子として生まれた。1275年から亡くなるまでトリポリ伯の地位にあり、かつて大きかったアンティオキア公国は、このころ港町ラタキアを残すだけになっていた。治世の大半を、テンプル騎士団との戦いのなかで過ごし、その戦いは1277年から1282年にまで及んだ。
伯位を継いだとき、ボエモンはまだ未成年だった。母シビーユが摂政を務めたが、キプロス王ユーグ3世は、継承順位が最も近い成人の親族として摂政を要求し、これは退けられた。シビーユは、トルトサの司教バルトロメオを代官に任じた。ボエモンは、若い時期を、叔父のアルメニア王レオンの庇護のもと、キリキアの宮廷で過ごした。1277年にトリポリへ戻ると、すぐにマムルーク朝のスルターン、カラーウーンと和平を結んだ。また、アッコでシャルル・ダンジューの代理を務めるロジェ・ド・サン=セヴェリーノを摂政として認めた。ヴェネツィア人には港の税を免除し、その結果、ジェノヴァ人とその同盟者とは疎遠になった。
帰国後、ボエモンはビブロスを治めていた有力なエンブリアコ家と対立した。当時のトリポリは弱く、司教パウロ・ディ・セーニが率いるローマ派と、シビーユとバルトロメオが率いるアルメニア派とに分かれていた。パウロは、テンプル騎士団の新しい総長ギヨーム・ド・ボージューと親しくなり、ふだんは騎士団と敵対するエンブリアコ家とも手を結んだ。これが、ボエモンと騎士団との一連の戦いの始まりとなった。ボエモンはまず、騎士団のトリポリの建物を焼いた。騎士団は報復として、伯の城ボトロンを破壊し、ネフィンを攻めた。ボエモンはビブロスへ進軍したが敗れ、休戦に応じた。
1278年、ビブロスのギーと騎士団がトリポリを襲ったが、ボエモンは城壁の外で迎え撃った。ボエモンは敗れたものの、騎士団のガレー船12隻は嵐で散り、ボエモンの15隻の艦隊は騎士団のサイダを攻めて被害を与えた。このときの休戦は、聖ヨハネ騎士団の総長ニコラ・ロルニュが仲介した。最後の衝突は1282年1月に始まった。エンブリアコ家がトリポリを不意に襲おうとしたが、騎士団の総長が不在だったので、聖ヨハネ騎士団のもとに逃げ込んだ。聖ヨハネ騎士団は命を助けることを条件に彼らをボエモンへ引き渡したが、ボエモンは彼らを首まで砂に埋め、餓死させたという。この行いは、ジェノヴァ人とジャン・ド・モンフォールをいっそう遠ざけたが、ボエモンはモンフォールを抑えてビブロスを手に入れた。
1287年、マムルーク朝のカラーウーンがラタキアを奪った。ラタキアはアンティオキアの一部で、和平条約の対象外だというのが主張だった。これで、アンティオキア公国に最後に残っていた土地が失われた。ボエモンはその直後に亡くなり、妻のマルグリットとの間に子はなかった。トリポリは相続の危機に陥ったが、妹のルシアがヨーロッパから来て、伯領の統治を引き継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ギヤースッディーン・バルバン (1287年没)
- インゲボー・ア・ダンマーク (ノルウェー王妃) (1287年没)
- ボナヴェントゥーラ・ベルリンギエーリ (1287年)
- Prijezda I, Ban of Bosnia (1287年)
- Abish Khatun (1287年)
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