HISTORICAL PERSON · 紀元前49年没

アリストブロス2世

ハスモン朝の王・大祭司で、野心家。兄ヒルカノス2世を破って王位に就いたが、前63年にポンペイウスに拘禁され、エルサレムを攻略された。前49年、カエサルに解放されたがポンペイウス派に毒殺された。

生涯
紀元前49年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アリストブロス2世は、古代イスラエルのハスモン朝の王であり大祭司である。アレクサンドロス・ヤンナイオスとサロメ・アレクサンドラの子で、ヨハネ・ヒルカノス2世の弟にあたる。在位は紀元前66年から紀元前63年とされるが、紀元前67年から紀元前63年とする記述もある。気弱で意思の薄弱な兄とは対照的に、野心家で大胆な人物であった。

母サロメの治世にファリサイ派が実権を握ると、アリストブロスは反ファリサイ派を擁護し、彼らにヒュルカニア、アレクサンドレイオン、マカイロスの守備を任せることに成功した。母が重体に陥ると、権力を奪うためアガバの要塞に脱出して挙兵した。この間、妻と子はファリサイ派に人質にとられたとされる。母の死後、兄ヒルカノス2世が王位に就いたが、アリストブロスはエリコ近くの戦いで兄を破った。ヒルカノス2世の軍の多くが弟の側に移ったともいわれる。ヒルカノスは、捕らえていたアリストブロスの妻子の助命と引き換えに退位し、隠遁生活と財産の保障を得て満足した。こうしてアリストブロス2世が大祭司・王となった。

ところが、ヒルカノスの部下でイドマヤ人のアンティパトロスは、アリストブロスに対抗するようヒルカノスに勧め、ナバテア王アレタス3世に援助を求めた。内戦が再発し、紀元前65年には同盟軍がユダヤに攻め入った。アリストブロスはエルサレムで包囲されたが、ポンペイウスの部下スカウルスが来ると、金400タラントの提供を申し出て味方につけた。スカウルスの威嚇でアレタスが包囲を解いて退くと、アリストブロスは追撃して大勝し、アンティパトロスの兄弟ファリオンが戦死したという。アリストブロスはその後もローマの歓心を得ようと努め、ポンペイウスに黄金の器を贈ったと伝わる。

紀元前63年、ポンペイウスはセレウコス朝シリアを征服したのち、ユダヤの制圧も狙った。アリストブロスとヒルカノスはともにダマスコでポンペイウスの調停を求め、民衆の代表も訪れた。ヒルカノスは弟が不当に王権を握ったと訴え、アリストブロスは兄の無気力と無能を非難した。民衆は両者を退け、ハスモン朝以前の祭司による統治に戻ることを望んだ。ポンペイウスはヒルカノスに傾いたとされるが、アリストブロスはポンペイウスの態度に不満を抱いて無言のまま立ち去った。ポンペイウスを侮る姿勢を取り、約束した貢納金も支払わなかったため、拘禁された。

ローマ軍はヒルカノス派の手引きもあって、3か月の攻囲の末にエルサレムを占領した。陥落の際にはユダヤ人同士の殺戮が起こり、ポンペイウスは立ち入りが禁じられた神殿の聖所に入ったという。アリストブロスは息子たちとともに捕虜となり、ローマへ送られた。大祭司職は兄ヒルカノスに戻され、ユダヤはローマの保護下に置かれた。紀元前57年、アリストブロスは脱獄して支持者を集め、アレクサンドレイオン、続いてマカイロスの要塞に立てこもったが、ローマに鎮圧され、ガビニウスによってローマに送還され幽閉された。紀元前49年、カエサルは彼を解放し、ポンペイウスに対抗させるためユダヤへ送り返した。しかしその旅の途中で、ポンペイウス派に毒殺された。息子アレクサンドロスもアンティオキアで、ポンペイウス派のスキピオに殺された。別の息子アンティゴノスは後にパルティアの援助で王位を奪ったが、アンティパトロスの息子ヘロデに敗れて処刑され、ハスモン朝は断絶した。ヘロデがユダヤ王に即位してヘロデ朝が成立した。

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