伝記
アレクセイ・イヴァーノヴィチ・ルイコフは、1881年2月25日(ロシア暦2月13日)に生まれたロシア帝国の革命家で、ソビエト連邦の政治家である。行政と経済の実務に優れた手腕を発揮し、レーニンの死後に人民委員会議議長(首相)となったが、スターリンとの権力闘争に敗れ、粛清された。農奴の家庭に生まれたとされ、サラトフの高等学校を出て、1900年にカザン大学に入ったが、政治活動のために退学処分となり、逮捕もされた。1898年にロシア社会民主労働党に入党し、1903年の第2回党大会で党がボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂すると、ボリシェヴィキに加わった。スイスに亡命していたレーニンを訪ねたこともある。
以後はペテルブルクとモスクワで組織のまとめ役として活動し、1905年の第一次ロシア革命で活躍した。同年のロンドンでの第3回党大会、統一を図った第4回党大会、1906年のコペンハーゲン大会で中央委員に選ばれた。1908年から1909年にレーニンとボグダーノフが争うとレーニンを支持し、1909年6月にパリで開かれた会合でボグダーノフを中央委員会などから排除した。一方で、メンシェヴィキとの調停を望む立場もとり、1912年にはレーニンと意見が合わず分派活動を試みたが、シベリアに流刑となった。
1917年の二月革命でシベリアから戻ってボリシェヴィキに復党し、モスクワ軍事革命委員会の委員も務めた。十月革命でソビエト政権が樹立されると内務人民委員に就任した。国有鉄道労働組合が他の社会主義政党との連立政権を求めてストライキを宣言すると、ジノヴィエフ、カーメネフらとともに妥協を主張した。しかしケレンスキーらの軍を破って情勢が一変し、交渉は打ち切られる。11月、ルイコフは「全社会主義政府」の支持者として党中央委員会と政府の役職を辞任した。1918年4月に最高国民経済会議議長として復帰し、内戦期の国民経済の管理運営に辣腕を振るった。1919年から労働防衛評議会特別代表を務め、赤軍への食糧供給の問題を、農村からの食糧の強制徴発によって解決した。
レーニンの健康不安に伴い、1921年12月に人民委員会議議長代理(副首相)となり、1922年4月に政治局員に選ばれた。1924年1月21日にレーニンが死去すると、後任の人民委員会議議長に就任した。1920年代の党内では、ブハーリン、トムスキーとともに右派を形成し、新経済政策によって部分的に市場経済を導入し、経済の回復を図った。レーニンの後継をめぐる闘争では、スターリンらの「トロイカ」と組んでトロツキーを失脚させ、1926年から1927年にはスターリンを支援して、ジノヴィエフ、カーメネフらの合同反対派を破った。
しかし1927年12月にスターリンが工業化と農業の集団化を柱とする急進的な政策を採択すると、ルイコフらは衝突し、1929年に右派は敗れた。1930年12月に再度の自己批判を余儀なくされ、政治局員と首相の職を失い、後任はモロトフとなった。のち郵便電信人民委員を務めたが、1937年に共産党を除名されて逮捕され、1938年3月の第三次モスクワ裁判で、トロツキーと共謀してスターリンの追放を計画したという罪で有罪となり、3月15日に銃殺された。ペレストロイカのなかで再評価され、1988年に名誉回復と党員資格の回復がなされた。
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