HISTORICAL PERSON · 1938年没

フョードル・シャリアピン

ロシア出身のバス歌手。ボリショイ劇場などで主役を演じ、自然な演技と表現力から「歌う俳優」とも呼ばれた。

生涯
1938年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
ロシア連邦(Lisitsyn-Emelin House)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

フョードル・イワノヴィッチ・シャリアピンは、1873年2月13日(露暦2月1日)にロシア帝国のカザンで生まれたオペラ歌手である。声域はバスで、力に満ち溢れた柔らかな美声と、舞台人としての精神、心理描写に卓越した表現で「歌う俳優」とも呼ばれた。農民の家の出で、父イヴァンは地方自治会の事務官を務めた小役人であった。生まれた翌日に洗礼を受けている。一家は父にとって家賃が高かったため、1878年に郊外の村に移った。少年期には靴屋の徒弟や旋盤工、筆耕などとして働き、17歳で地方の小歌劇団の合唱員として歌い始め、徐々に役を獲得した。1892年から1893年にかけてトビリシで初めて専門的に声楽を学び、以後オペラ歌手として本格的に活動し、1894年からサンクトペテルブルクの帝室マリインスキー劇場に所属した。

さらにモスクワに移り、マモントフ私立歌劇場に出演した。ここでメフィストフェレス役を演じて大きな成功を収め、助手指揮者だったセルゲイ・ラフマニノフと出会って、生涯の友情を結んだ。ラフマニノフは楽譜の分析など音楽家としての心得を教え、自分の役だけでなく、出演する歌劇のすべての役を覚えるよう求めたという。彼と共にムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』の題名役を学び、この役はシャリアピンの当たり役となった。マモントフでの出演が認められ、1899年にボリショイ劇場に招かれて、1914年まで定期的に出演した。ロシア・オペラの主役を次々に演じ、時代を代表するバス歌手としての地位を不動のものとした。

1901年から外国公演を始め、同年、ミラノのスカラ座でトスカニーニの指揮でボイトの『メフィストーフェレ』に出演した。トスカニーニは、キャリアの終わりに、共演した中で最高の歌劇の才能だと語ったという。1907年から1908年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場に出演したが、舞台での演技の率直さが前例のないものだったため、評判は今一つだった。1921年に再び出演すると大成功を収め、8シーズンにわたって歌った。ディアギレフらによって、パリやロンドンに招かれてリサイタルを行い、ロシア民謡も多く歌って人気を博した。「蚤の歌」や「ヴォルガの舟曳きの歌」などの録音にも取り組み、現在200以上の作品が残っている。

1917年にロシア革命が起こると、当初は世界的名声から偉大な芸術家として処遇されたが、のちに不遇をかこつようになり、1921年に祖国から亡命した。以後はパリに住み、世界各地で公演を行った。1926年にはオーストラリアを巡演している。1933年には映画『ドン・キホーテ』に主演した。1936年1月には夫人や令嬢を伴って日本を訪れ、東京、名古屋、大阪で公演した。既に白髪の老人の顔に関係者は不安を覚えたが、公演を重ねるにつれて調子を上げ、大きな評判を呼んだ。滞在中、歯の状態に悩んでいると、帝国ホテルの料理長が柔らかなステーキを考案し、これが「シャリアピン・ステーキ」と名づけられた。1938年4月12日にパリで死去し、65歳であった。バチニョル墓地に埋葬されたが、1984年にモスクワのノヴォデヴィチ墓地に改葬された。

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