HISTORICAL PERSON · 1938年没

ムスタファ・ケマル・アタテュルク

トルコ共和国の初代大統領。トルコ独立戦争を指導して共和国を樹立し、政教分離やラテン文字採用などの近代化を進めた。国父と呼ばれる。

生涯
1938年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / ドルマバフチェ宮殿)
出生地
ギリシャ共和国(テッサロニキ)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、1881年にオスマン帝国領の県都セラーニク(現ギリシャ領のテッサロニキ)で、税関吏の父と母の子として生まれた。夫妻は「選ばれし者」を表す「ムスタファ」と名づけ、のちにサロニカ幼年兵学校の数学教官が、教科に長けていたことから「完全な者」を意味する「ケマル」のあだ名を与えた。祖先については説が多様で、父アリ・リザはアルバニア人またはスラブ人とも、アナトリア由来のトルコ人ともいわれ、母ズベイデはトルコ系とみられている。父の希望で西洋式のシェムシ・エフェンディ学校に進んだが、父の死を契機に家族で叔父のもとに身を寄せ、母の再婚後は叔母の家に移った。

1899年3月に陸軍士官学校に入学し、1902年2月に歩兵少尉として第8席の成績で卒業した。陸軍大学校では1905年に課程を終えて参謀大尉となり、研修のためダマスカスの第5軍に配属された。士官学校のころからアブデュルハミト2世の専制に反感を抱いており、ダマスカスで秘密結社「祖国と自由」に関わり、のちに統一と進歩協会に加入した。1911年にイタリアがリビアに侵攻すると、新聞記者「ムスタファ・シェレフ」を名乗ってベンガジに潜入し、義勇部隊の司令官としてゲリラ戦を指揮した。翌年1月には左目を負傷している。バルカン戦争ではダーダネルス海峡地区の作戦課長を務めた。1913年10月にはブルガリアの首都ソフィアの駐在武官に任命された。

第一次世界大戦中の1915年1月に第19師団長となり、4月25日に英仏軍がガリポリに上陸すると、オーストラリア・ニュージーランド軍団が上陸した地区に急行して前進を食い止め、6月1日に大佐に昇進した。8月には英軍増援の上陸に対し、アナファルタラル集団の司令官として前進を食い止め、イスタンブールの報道機関は「アナファルタラルの英雄」と報じた。1916年3月には「パシャ」の称号を得た。1917年末には皇太子ワフデッティン、のちのメフメト6世の訪独に随行して親交を深め、即位した彼から「スルタンの名誉副官」の称号を贈られた。1918年10月30日に休戦協定が調印され、オスマン帝国は降伏した。

1919年5月19日、東部アナトリアへ派遣されたムスタファ・ケマルはサムスンに上陸し、エルズルムからスィヴァスへ進みながら、各地の司令官や旧統一と進歩委員会の有力者らを招集した。オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ、「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動を組織した。1920年4月には彼の一派によって大国民議会が結成され、スルタン側と対立し、ギリシア軍を破って、1922年にはイズミルを奪い返した。同年11月にスルタン制を廃し、1923年10月29日に共和国の初代大統領に就任した。宗教と政治の分離を断行して、憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、文字をアラビア文字からラテンアルファベットに改め、一夫多妻を禁止して女性参政権を導入した。カリフ制も廃止し、大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。現代トルコの国父とも呼ばれ、1938年11月10日に没した。

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