HISTORICAL PERSON · 1938年没

カール・カウツキー

チェコ系オーストリア人のマルクス主義政治理論家。マルクスやエンゲルスと交流し、マルクス主義の機関誌「ノイエ・ツァイト」を創刊した。

生涯
1938年没
死亡地
オランダ(北ホラント州 / アムステルダム)
出生地
チェコ共和国(プラハ)
出典
世界地図
オランダ(北ホラント州)

伝記

カール・カウツキーは、1854年10月16日にボヘミアのプラハで生まれ、1938年10月17日に没したマルクス主義の政治理論家であり、革命家、政治家、哲学者、経済学者である。チェコ系のオーストリア人で、ドイツを中心に活動した。父はチェコ人の背景画家、母はシュタイアー出身の民族ドイツ人で、女優であり作家であった。

7歳でウィーンに移り、ギムナジウムを経て1874年にウィーン大学に入学し、歴史哲学を専攻した。在学中の1875年にオーストリア社会民主党に入党している。大学を出た後の1880年にチューリッヒへ転居し、翌1881年にロンドンを訪れて、カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスと意見を交わす機会を持った。1882年にマルクス主義の機関誌「ノイエ・ツァイト」を創刊し、1885年から1890年にかけてロンドンに滞在して、エンゲルスと度々意見交換をしながら、アウグスト・ベーベルやエドゥアルト・ベルンシュタインらと、ドイツ社会民主党のエルフルト綱領の策定に関わった。エンゲルスの死後は、ベーベルと共に党内のマルクス主義中間派を形成し、主導権を握った。マルクスの遺稿の整理と編集の仕事も引き継ぎ、『剰余価値学説史』や『資本論・民衆版』などを編集して刊行した。綱領の策定に関わったことから、マルクス主義理論の正統的な後継者の地位を確立し、自ら編集主幹を務める「ノイエ・ツァイト」を足場に、社会主義の最も重要で影響力のある理論家の一人となり、「マルクス主義の法王」と渾名された。

ベルンシュタインとは大学時代からの知り合いで、マルクス主義者となったのも彼の影響だったが、1890年代半ば以降に彼が打ち出した修正主義が党内で台頭すると、『農業問題』や『ベルンシュタインと社会民主主義の綱領』(ともに1899年)などの著作で反論した。一方で、1910年代に盛んとなったローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトなど左派にも批判を向けた。1913年にはベルンシュタインや左派とともに、軍事力増強法案に反対し、1917年に「ノイエ・ツァイト」の編集主幹を辞して、独立社会民主党に参加した。

ロシア革命後、ドイツでレーテ運動が展開されると、ソビエト制とボリシェヴィズムを批判した。議会制民主主義を擁護し、1918年の『プロレタリアートの独裁』では、ソビエト政権を一党独裁だと非難して、民主主義による社会主義の実現を主張した。ボリシェヴィキが憲法制定会議を解散させたことは、二月革命で獲得した民主主義の廃棄だと論じた。これに対してレーニンは、『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(1918年)で、彼を「背教者」などと激しく罵倒した。

ほかに『資本論解説』(1887年)、『近代社会主義の先駆者たち』(1895年)、『倫理と唯物史観』(1906年)、『キリスト教の起源』(1908年)、『権力への道』(1909年)などがあり、極めて多方面の文筆活動を行った。

第一次世界大戦後の1922年にドイツ社会民主党に復帰し、ヴァイマル共和国の要職を短期間務めたが、革命派の弾圧に反対して党の国会議員団から除名された。1924年に政治活動から引退してウィーンへ帰郷した。アンシュルスに伴ってナチスに追われ、プレスブルクとプラハを経てアムステルダムへ逃れ、同地で没した。

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