伝記
クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスは、共和政ローマ末期の政治家であり、何よりも弁論家として名を知られた人物である。紀元前114年に生まれ、紀元前50年に64歳で没したと推定され、紀元前69年には執政官を務めた。ホルテンシウス氏族は、紀元前287年にクィントゥス・ホルテンシウスが独裁官となり、ホルテンシウス法を制定したことで知られる。父ルキウスはシキリア属州の総督を務め、「ホルタルス」という愛称を使い始めたのもこの父である。
ホルタルスが最初に法廷に立ったのは紀元前95年、わずか19歳のときで、このとき「アフリカの守護者」と評された。詳細は不明だが、アフリカ属州の総督を権力乱用の罪で訴えたものと考えられている。聴衆の人気を集め、その中には同年の執政官クラッススとスカエウォラもいた。紀元前91年にはビテュニア王ニコメデス4世を弁護している。まもなく同盟市戦争が始まり、ホルタルスも従軍して、紀元前90年には一般兵、紀元前89年には高級士官となった。スッラの下で活動したと推測されるが、確かめられる兵役はこれだけである。
紀元前88年にローマの政争はマリウス派とスッラ派の内戦に発展した。ホルタルスの妻は、マリウスの政敵であったカトゥルスの娘であった。紀元前87年にマリウスとキンナがローマを占領すると、粛清でカトゥルスは自決した。多くの門閥派貴族がローマを脱出したが、ホルタルスは市内にとどまり、法廷にも出た。当時の著名な弁論家たちはすでに病没、亡命、殺害のいずれかで舞台を去っており、ホルタルスはローマ第一の弁論家となった。この頃、紀元前89年に戦利品横領で告発された18歳のポンペイウスの弁護にも加わり、主弁護人を務めて無罪を得た。元老院には両派の妥協を探る中道派がおり、ホルタルスもその一員だったという。キケロは、ホルタルスが内戦に加わらなかったことで一度ならず名声を得たと述べている。
マリウス派の敗北後、活動に制限はなくなった。紀元前81年にはクィンクティウスの裁判で原告側の代理人を務め、25歳のキケロが相手側の弁護人となった。キケロはこの弁論でホルタルスへ極端な敬意を示したが、そこには皮肉も読み取れる。おそらく紀元前77年には、スッラ派のドラベッラがカエサルに告発された注目度の高い裁判で、コッタとともに弁護人となり、無罪を勝ち取った。同じ頃のカヌレアの裁判でも二人は弁護に立ち、この勝利でホルタルスはコッタと並ぶ存在とみなされた。紀元前74年頃には、護民官の権限の復活を図った護民官オピミウスを告発し、有罪判決を得たと考えられる。キケロによると、ホルタルスは通常と異なる色の投票板を使って判事の投票を左右し、秘密投票でも誰がどちらに投じたかを知ることができたという。
ホルタルスは生涯、元老院の寡頭制を支持する門閥派に属した。紀元前70年、キケロが元シキリア属州総督ウェッレスを告発すると、その弁護に立った。二人は古くからの友人で、ホルタルスはウェッレスが総督在任中に得た莫大な財産の恩恵にも与り、荘園はシキリアから送られた美術品で飾られていたと、キケロは述べている。弁護側はウェッレスの元財務官ニゲルにも告発を名乗り出させ、キケロとどちらが告発者になるかを予備審問で決めさせた。キケロはその演説で、ホルタルスの才能は称賛するが恐れはしないと言い放った。判事はキケロを原告として認めたが、ホルタルスは翌年の執政官選挙を見据え、当選して裁判を翌年まで延ばせれば有利になると考えて、審理の引き延ばしにかかった。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・リキニウス・ムレナ (紀元前 50年(推定))
- フィリッポス2世フィロロマイオス (紀元前50年代没)
- ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス (紀元前39年の執政官) (紀元前 50年(推定))
- ガダラのメレアグロス (紀元前 50年(推定))
- マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官) (紀元前 50年(推定))
同じ地域に関係する人物
- マリー=ジョセフィン・ゴーディト (2017年没)
- ヨハネス7世 (ローマ教皇) (707年没)
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- マリオ・ランツァ (1959年没)
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