HISTORICAL PERSON · 1937年没

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト

アメリカの怪奇・幻想小説家。生前は無名だったが、死後に作品が「クトゥルフ神話」として体系化され、後のSFなどに大きな影響を与えた。

生涯
1937年没
死亡地
アメリカ合衆国(ロードアイランド州 / プロヴィデンス)
出生地
アメリカ合衆国(プロヴィデンス)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ロードアイランド州)

伝記

ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは、1890年8月20日、ロードアイランド州プロヴィデンスに、父ウィンフィールド・スコットと母サラ・スーザンのあいだの一人っ子として生まれた怪奇小説・幻想小説の作家である。母は地元の名士として知られた商才豊かなフィップル・フィリップスの娘だった。ウィンフィールドは1893年4月、ラヴクラフトが3歳のころに神経症を患い、シカゴのホテルで発作を起こして病院に運び込まれ、5年後に精神病院で衰弱死した。父の入院後、母子は母方の叔母たちと祖母、祖父が住むヴィクトリア朝様式の古い屋敷に引き取られた。経済的に恵まれた環境で、ゴシック・ロマンスを好んだ祖父の影響で物語や古書に触れ、3歳で、離れた場所にいる祖父と文通までした。母は彼を溺愛した。

1896年に祖母が亡くなると、5歳の少年は喪服の黒いドレスや葬儀の様子に強い衝撃を受けたと語った。コールリッジの「老水夫行」や『千夜一夜物語』などに触れた経験は、のちの作品に反映されたと考えられている。6歳ごろから自分でも物語を書き、ギリシア神話の焼き直しだった。キリスト教以外の神々に興味を抱き、「夜妖」にさらわれる悪夢に悩んだが、8歳で科学に関心を持つと同時に宗教心を捨てると、その悪夢は見なくなったという。とくに化学と天文学に強い関心を示した。16歳のころには新聞に天文学の記事を投稿し、『サイエンティフィック・アメリカン』誌にも寄稿するようになった。

しかし神経症は悪化し、学校を長く欠席して成績は振るわなかった。祖父の事業が傾いて経済的なゆとりも失われ、その祖父も亡くなると、精神的にも経済的にも追い詰められ、1908年に神経症のためハイスクールを中退した。名門ブラウン大学を志望し、独学で大学を目指したが挫折し、18歳には小説の執筆をやめて、半ば隠者のように世間を避けて暮らした。この時期を「人生で最も暗い時期の一つ」と述べている。この頃に小説『洞窟の獣』『錬金術師』が書かれ、1912年には新聞に最初の詩を発表した。この頃の詩には人種差別的な思想が現れている。1914年4月にアマチュア文芸家の交流組織に参加したのをきっかけに創作が再び始まり、1915年には文章添削の仕事を始め、文通グループも結成した。1917年には徴兵検査に不合格となり、これが生涯付きまとう劣等感の一因になったという。母は1919年に神経障害で入院し、1921年5月22日に亡くなった。

1923年、創刊されたばかりの怪奇小説専門のパルプ雑誌『ウィアード・テイルズ』10月号に短編「ダゴン」が採用された。1924年3月3日、文通で知り合った実業家ソニア・ハフト・グリーンと結婚してブルックリンに移ったが、翌年には別居し、1929年に離婚してプロヴィデンスに帰った。創作の収入はわずかで、生活は生涯苦しかった。わずかな遺産と他の作家の文章添削で暮らし、無類の手紙魔として、同じ雑誌の作家やファンとの文通に多くの時間を割いた。のちにクトゥルフ神話と呼ばれる宇宙史も、そうした文通のなかで発展していった部分が大きいといわれる。

生前は一般の読書界からほとんど受け入れられず、自費出版の単行本は1冊だけだった。1937年3月15日、腸癌により46歳で亡くなった。無名のまま死んだが、友人のオーガスト・ダーレスらがアーカム・ハウス社を設立して作品集を出し、世に知られるようになった。1945年には傑作集も刊行され、詩や随筆、創作ノートなども含む事実上の全集が出て、1960年代にはアンダーグラウンド文学の「教祖的存在」と見なされるに至った。

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