伝記
グリゴリー・コンスタンティノヴィチ・オルジョニキーゼは、1886年10月24日に帝政ロシア領グルジア(ジョージア)西部の村で生まれた革命家、ソビエト連邦の政治家である。「セルゴ」の名で活動したため、一般には「セルゴ・オルジョニキーゼ」の名で知られる。没落した貴族の家の出である父コンスタンティネと、農民の母エウプラクシアの二番目の子で、母方の祖父にちなんで名づけられた。生後6週間で母が亡くなり、父は子を育てきれず、近くに住む叔父夫婦に預けた。父も10歳のときに世を去り、叔父夫婦のもとで学校を終えて、医療の訓練を受けた。ティフリスの病院の医療学校を出て、短い間は医療助手として働いたという。
1903年、17歳でロシア社会民主労働党に入り、地下印刷所でボリシェヴィキ派のビラを配る活動をした。1905年に革命が始まるとより危険な任務を与えられ、12月に武器の運搬で初めて逮捕されて、数か月を獄中で過ごした。保釈されるとドイツに逃れたが、まもなく働いていたバクーに戻り、1907年のメーデーのデモを組織して再び逮捕された。同じ年の10月に三度目に投獄されたときには、同房のヨシフ・ジュガシヴィリ、のちのスターリンと出会った。二人はバックギャモンをして政治を語り合い、親しい友人になった。四度目の逮捕でシベリアに追放されたが、数か月後に脱走し、バクーに戻った。ボリシェヴィキは彼をペルシャに派遣し、イランで起こっていた革命運動を支援させたが、十分な支持を得られず、バクーに戻った。
1911年にはパリでレーニンに会い、党学校で学んだが、党内の争いのため短期間で去った。1912年1月のプラハ協議会の準備のためロシアに戻り、同年4月にはスターリンとともにサンクトペテルブルクに帰還したが、再び逮捕されて3年の重労働刑を科された。1917年の二月革命が始まったとき、シベリアで流刑の身だった。のちにロシア内戦が起こると、ウクライナの政治委員となり、カフカースの闘争で中心的な役を果たして、アゼルバイジャンやアルメニアにソビエト政権を樹立する動きを支えた。1921年にはグルジア民主共和国への赤軍の侵攻を指導し、グルジア社会主義ソビエト共和国の成立に役割を果たした。その後はロシアからのグルジアの自治を求める動きを弾圧し、1922年のグルジア問題の主要人物の一人となった。ザカフカース連邦の第一書記を1926年まで務め、同年に政治局員に選ばれた。
その後は工業の運営を担った。1930年に最高国民経済会議の議長となり、1932年にそれが重工業人民委員部に改編されると、五か年計画の実施を指揮して、模範労働者を称えるスタハノフ運動の形成にも関わった。一方、技術者や経済官僚を破壊工作者として粛清する運動には消極的で、経験のある人材を守ろうとしたため、長年の友スターリンとの間に摩擦が生じ、スターリンは彼の忠誠を疑うようになった。実弟のパヴェルまで逮捕・処刑された。1937年2月18日に遺体で発見され、公式には心臓発作による急死とされた。フルシチョフの回想録によれば、死の前夜に彼は盟友ミコヤンに、スターリンが党に対して行っていることを許せないが、もうそれと闘う力はないと打ち明けていた。夫人ら多くの関係者が自殺を証言している。ソ連時代にはウラジカフカスなどいくつもの都市が、彼にちなんで「オルジョニキーゼ」と改名された。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ジレット (1937年没)
- オットー・ヘルダー (1937年没)
- クレマンティーヌ=エレーヌ・デュフォー (1937年没)
- アントニオ・グラムシ (1937年没)
- ハリー・ケスラー (1937年没)
同じ地域に関係する人物
- ミハイル・カトゥコフ (1976年没)
- イオアキム・ヴァツェチス (1938年没)
- セルゲイ・トルベツコイ (1860年没)
- ヴャチェスラフ・チーホノフ (2009年没)
- ドミトリー・イワネンコ (1994年没)