HISTORICAL PERSON · 1937年没

ルー・アンドレアス・ザロメ

ロシア生まれのドイツの著述家・エッセイスト。後年はフロイトに師事して精神分析家としても活動した。イタリアの指揮者シノーポリが彼女を題材にオペラ『ルー・ザロメ』を作曲している。

生涯
1937年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州 / ゲッティンゲン)
出生地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州)

伝記

ルー・アンドレアス・ザロメは、1861年2月12日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれたドイツの著述家、エッセイストで、後年は精神分析家としても活動した。本名はルイーズ・フォン・ザロメという。父グスタフ・ルートヴィヒは将軍とされ、母ルイーゼとのあいだに五人の息子がいて、彼女は末っ子で唯一の娘だった。裕福で教養ある家庭に育ち、子どもたちは皆ロシア語、ドイツ語、フランス語を学んだ。兄たちの授業に出ることも許された。厳格なプロテスタントの家に生まれたが、改革派の教会と正統派の牧師に反発し、堅信礼を拒んで、16歳のときに教会を正式に離れた。そのいっぽう、哲学や文学、宗教への関心は失わず、オランダ人牧師ヘンドリク・ギロの説教に惹かれ、神学や哲学、世界の宗教、フランス・ドイツ文学の個人指導を受けた。

1879年に父が亡くなると、母とともにチューリッヒへ移り、1880年にチューリッヒ大学で宗教学、哲学、芸術史の勉強を始めた。当時としては女子学生を受け入れる数少ない大学のひとつだった。しかし肺の病で喀血するなど健康を損ね、温暖な地での療養を勧められて、1882年2月に母とローマへ向かった。ローマの文学サロンで作家パウル・レーと知り合い、求婚されたが、彼女は断り、もう一人の男性とともに「兄と妹」として共同生活を送り、学問の共同体を作る案を持ちかけた。レーは友人のフリードリヒ・ニーチェを加えることを提案した。1882年4月にローマで会ったニーチェは、すぐに彼女に恋をしたと考えられている。ニーチェは、レーを通じて求婚したが拒まれ、5月13日にはルツェルンで二人きりになったときも、みずから真剣に求婚し、また断られた。彼女は友人としてのニーチェには関心を持っていた。

三人はスイスやイタリアを旅しながら、「冬の計画」と呼ぶ共同体を、廃墟となった修道院に設けようと考えたが、適当な場所が見つからず断念した。ニーチェの妹エリーザベトは、彼女を「不道徳な女」と呼んで、兄と引き離そうとした。1882年10月にライプツィヒで数週間をともにしたのち、11月にレーと彼女はニーチェと別れ、ニーチェは精神的な苦悩に陥った。のち1894年に、『その作品に見るフリードリヒ・ニーチェ』を著している。ベルリンではレーと同居していたが、1887年にイラン学者のフリードリヒ・カール・アンドレアスと結婚した。夫とは1930年の死別まで婚姻関係にあったが、他の男性との関係を公然と持った。ベルリンでは、ハウプトマン、ヴェーデキント、ストリンドベリ、シュニッツラーら当時の著名人と知り合い、その交友を通じてライナー・マリア・リルケと出会い、二度のロシア旅行を共にした。リルケからの求婚も断っている。

1911年、ヴァイマールで開かれた国際精神分析会議に参加したのち、フロイトのもとで精神分析の知識を深めようとした。夫がゲッティンゲン大学に招かれると、彼女もゲッティンゲンで分析家として開業した。『神との戦い』(1885年)、『ヘンリク・イプセンの女性像』(1892年)、『エロティーク』(1910年)、『リルケ』(1928年)、『フロイトへの感謝』(1931年)などを著し、作品では、伝統的な世界の中で自分の道を歩み始めた近代的な女性たちの問題を取り上げた。1937年2月5日、ゲッティンゲンで尿毒症により亡くなった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物