HISTORICAL PERSON · 紀元前56年没

ルキウス・リキニウス・ルクッルス

スッラの支援者で、紀元前74年に執政官となった。第三次ミトリダテス戦争でミトリダテス6世らを破ったが、指揮権をポンペイウスに奪われた。引退後は豪邸と美食で知られ、豪華な食事はルクッルス式と呼ばれる。

生涯
紀元前56年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ルキウス・リキニウス・ルクッルスは、共和政ローマの政治家であり軍人である。スッラの支持者で、小アジアと黒海沿岸で戦い、ルクルスとも表記される。紀元前118年頃にローマに生まれ、紀元前56年頃に没した。父は同名のルキウス・リキニウス・ルクッルスで、紀元前104年に法務官を務めたが、収賄で有罪とされて亡命した。祖父も同名で、紀元前151年に執政官を務めた。母カエキリアはカエキリウス・メテッルス家の出で、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスとは従兄弟の間柄だった。

紀元前90年代の初め、弟のマルクス・テレンティウス・ウァッロ・ルクッルスとともに、父を追放に追いやった検察官ガイウス・セルウィリウス・ウァティアを窃盗で告発した。裁判では暴力沙汰で多くの死者が出て、セルウィリウスは都から逃げた。人々は若い兄弟の追及を英雄的な行為と見なし、二人は大きな人気を得た。同盟市戦争では軍団副官として戦い、最初は執政官ポルキウス・カトーの下にいたが、その戦死後はスッラの下に移った。紀元前88年のスッラのローマ進軍を支持した財務官は、彼ひとりだったとされる。

第一次ミトリダテス戦争では、紀元前87年から86年の冬に属州財務官代理となり、スッラの命で六隻の艦隊から大きな艦隊を編成した。ポントス海軍に対する制海権を取り戻し、キオス島やコロフォンからポントス軍を追い払い、テネドスの海戦でポントス艦隊を破って、スッラがアジアに渡る道を開いた。和平の後も紀元前85年から80年までアジアにとどまり、スッラの内戦の資金を過酷な取り立てなしに集め、行政官としての手腕を示した。ミティレネの反乱も迅速に鎮圧した。

紀元前80年の末にローマへ戻り、紀元前79年に弟とともに按察官となって、豪華な競技会を催した。象と牡牛の闘いを初めて導入したことで知られる。死を前にしたスッラは彼に深い愛情を寄せ、自らの回想録の校訂を託し、息子の後見人にも指名してポンペイウスを外した。これが二人の不仲の原因になったとプルタルコスは述べる。紀元前78年に法務官を務め、紀元前77年から76年にはアフリカ属州の総督代理となった。紀元前74年に執政官となり、第三次ミトリダテス戦争に赴いた。紀元前72年のカビラの戦いでミトリダテス6世を破り、アルメニアへ逃亡させた。彼をかくまったティグラネス2世とも戦い、紀元前69年のティグラノケルタの戦いで決定的な勝利を収め、紀元前68年にはアルタクサタでも勝った。だが、占領地での軍の維持を略奪に頼り、兵士に冷淡だったため、不満を持つ兵士たちと、彼らと結んだクロディウスの働きかけで名声と軍内の権威は衰えた。凱旋式を挙げることさえ危ぶまれ、軍の指揮権はポンペイウスに替えられた。紀元前63年にようやく総督として凱旋式が認められた。

引退後は共和政期随一といわれる豪邸を各地に建て、東方から持ち帰った多くの美術品や書物を並べた。贅沢な暮らしは有名で、プルタルコスによれば「トーガをまとったクセルクセス」と呼ばれ、サクランボやアンズをアジアからヨーロッパへもたらしたともされる。美食の代名詞ともされ、豪華な食事は今も「ルクッルス式」と呼ばれる。アポロンの間での食事は一回に五万ドラクマだったという。トゥスクルムの別荘には戦利品の書物を集めた大規模な私設文庫を設け、キケロや小カトーも利用した。

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