HISTORICAL PERSON · 1271年没

ミカエル2世アンゲロス・コムネノス

エピロス専制公として領土再建に努めたが、ペラゴニアの戦いで大敗し首都アルタを失い、晩年は東ローマ皇帝ミカエル8世の宗主権を承認した。

生涯
1271年没
死亡地
エピロス専制侯国
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ミカエル2世アンゲロス・コムネノスは、エピロス専制侯国の専制公である。国の創設者ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスの庶子で、生年は不明だが、1206年頃とする推定がある。自らは「ドゥーカス」の名を好んで使ったが、同時代のビザンツの歴史家は「アンゲロス」とも呼んだ。1215年に父が暗殺され、叔父テオドロスが権力を握ると、母とともにペロポネソス半島へ追放されたという。

1230年、テッサロニキ皇帝となっていたテオドロスがクロコトニツァの戦いでブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世に敗れて捕らえられ、弟マヌエルがテッサロニキを継いだ。ミカエルはこの機にエピロスへ戻り、地元の支持を得て国を掌握した。マヌエルは既成事実を認めるしかなく、ミカエルがマヌエルの宗主権を認める形をとって、専制公の称号を与えた(1237年のこととする説もある)。だが実際のミカエルは独立しており、まもなく宗主権を認めなくなって、1236年にはコルフ島を奪った。エピロスの有力貴族の娘テオドラ・ペトラリファイナと結婚して地元の有力者の支持を固め、ニカイア帝国とも近い関係を築いた。

1237年、テオドロスが解放されてテッサロニキに戻り、マヌエルを退けて息子ヨハネスを皇帝に据えた。1238年には、ミカエルはニカイアの総主教ゲルマノス2世の訪問を受けている。1239年に戻ってきたマヌエルとテオドロス父子の間で領地の分割が決まったが、ミカエルはこれに加わらず、1241年にマヌエルが亡くなると、ほかの叔父たちより先にテッサリアを占領した。ニカイアとの関係のおかげで、1244年から1246年にニカイア皇帝ヨハネス3世ヴァタツェスがテッサロニキを征服した争いでは中立を保てた。1246年秋にはヴァタツェスのブルガリア攻めに乗じて、アルバニアとマケドニア北西部へ領土を広げた。その後、ヴァタツェスはエピロスの長男ニケフォロスと自分の孫娘マリアの縁組を持ちかけ、妃テオドラが喜んでニケフォロスを連れてペガイへ会いに行き、二人は婚約した。ミカエル自身は一族の野心を捨てておらず、ニカイアとの結びつきには慎重だった。

1249年にヴァタツェスから宮廷の専制公の位を受けたが、1251年にはマケドニアへ攻め込み、失敗して1253年に和睦を結んだ。1257年にシチリア王マンフレーディやアカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンと同盟を結び、1259年にペラゴニアでニカイア軍と戦った。しかしミカエル・パレオロゴスの優れた指揮の前に団結に欠けた同盟軍は大敗し、首都アルタも占領された。1261年に東ローマ帝国が復興すると、1264年にミカエル2世はミカエル8世の宗主権を認めさせられた。

没年は1266年、1267年、1268年、1271年と説が分かれる。テオドラとの間には4男3女が生まれ、娘のヘレネはマンフレーディの、アンナはギヨーム2世の妻となった。デメトリオス=ミカエルは、父が宗主権を認めた際に人質のようにコンスタンティノープルの宮廷へ預けられ、ミカエル8世の娘アンナと結婚して専制公の称号を得た。ミカエルの死後、国は嫡子ニケフォロス1世のエピロスと、庶子ヨハネス1世ドゥーカスのテッサリアに分かれた。

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