伝記
イザベル・ダラゴンは、フランス王フィリップ3世の王妃である。アラゴン王ハイメ1世と、その2番目の妃でハンガリー王アンドラーシュ2世の娘ビオランテのあいだに生まれた。生まれた正確な日は記録されておらず、1247年の末か1248年の初めとされる。父はシヘナのサンタ・マリア修道院を財政面で支えており、1248年1月の遺言で、これから生まれる子が男子ならテンプル騎士団に入り、女子ならこの修道院の修道女になるよう定めていた。この遺言はイザベルが生まれる前に放棄されたと考えられる。
1258年5月11日にアラゴン王とフランス王ルイ9世のあいだでコルベイユ条約が結ばれ、その一環として、ルイ9世の次男フィリップとハイメ1世の末の娘イザベルの婚約が取り決められた。1262年5月28日、クレルモン(現在のクレルモン=フェラン)で正式な結婚式が行われた。このとき、フィリップは1260年に兄ルイが死んだことで、すでにフランス王位の継承者となっていた。二人のあいだには4人の男子が生まれた。長男ルイは1264年(1265年とも)に生まれて1276年に没し、1268年生まれの次男はのちのフィリップ4世となった。三男ロベールは1269年に生まれて1271年に没し、四男シャルルは1270年に生まれてヴァロワ伯となり、ヴァロワ家の祖となった。
1270年7月、イザベルは夫と義父のルイ9世に従って、チュニスに向かう第8回十字軍に加わった。翌8月にルイ9世が死に、夫が王位に就いたため、イザベルはフランス王妃となった。帰路の1271年1月11日、カラブリアのマルティラーノ近くでサヴートの川を渡る際に馬から落ちた。このとき5人目の子を身ごもって6か月で、早産となった男の子は間もなく死んだとされる。イザベルはマルティラーノ城、次いでコゼンツァに運ばれたが、疲れ果てて熱を出し、1271年1月28日に24歳で死去した。夫にとって、とりわけ身ごもっていた妻を失ったことは大きな打撃だったという。同年8月の戴冠式に王妃として臨むことはできなかった。
故国から遠く離れて死んだため、遺体には肉を除いて遺骨にする方法がとられた。イザベルはまず生まれた子とともにコゼンツァ大聖堂に葬られ、のちにサン=ドニ大聖堂の王家の墓所に移された。その墓は、1793年8月のフランス革命で荒らされた。イザベルの悲劇的な最期は、詩人ダンヌンツィオの詩集『ラウディ』にも歌われている。
同じ年に亡くなった人物
- マルグリット・ド・フランス (ブラバント公妃) (1271年没)
- オットー2世 (ゲルデルン伯) (1271年)
- キラコス (1271年)
- サワ2世 (セルビア大主教) (1271年)
- アルフォンス・ド・ポワティエ (1271年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョアッキーノ・グレコ (1630年代没)
- フィオーレのヨアキム (1202年没)
- イブラヒム2世 (902年没)
- アラリック1世 (410年没)
- Marcus Caelius Rufus (紀元前47)