伝記
ジョージ5世は、全名をジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバートといい、1865年6月3日に、当時プリンス・オブ・ウェールズだった後のエドワード7世とアレクサンドラ王太子妃の次男として生まれた。出生時の王位継承順位は、父と兄アルバート・ヴィクターに次ぐ第3位で、ジョージの即位を予想する者はいなかった。幼少期は兄とともに家庭教師から学んだが、兄弟ともに学業の出来は芳しくなく、自筆の文書には誤字が多いことで知られる。1877年9月には、海軍を「男児にとって最高の教育の場」と考えていた父の方針で、兄と共に海軍兵学校に入り、練習船「ブリタニア」で教育を受けた。
1879年に少尉候補生となり、兄とともにコルベットに3年間乗船し、西インド諸島や南アフリカ、オーストラリアのほか、南アメリカ、地中海、エジプト、極東を訪れた。1881年10月には日本を訪れ、腕に刺青を入れさせた。帰国後は、ケンブリッジ大学に進んだ兄と対照的に海軍に残り、1886年に大尉となり、砲艦の艦長として北大西洋でも勤務した。世界各国を訪問し続けたことから、ウィリアム4世と並んで「セイラー・キング」と呼ばれるほどの航海好きとして知られ、射撃の名人でもあった。マルタでは叔父の長女マリー・オブ・エディンバラと恋に落ちたが、双方の母が反対し、婚約は破棄された。
1892年1月14日、兄が肺炎で薨去したため、ジョージは父に次ぐ王位継承者となり、海軍を退役した。同年5月にヨーク公爵となった。ヴィクトリア女王は、亡き兄の婚約者だったテック公の長女ヴィクトリア・メアリーを将来の王妃にふさわしいと考えて説得し、ジョージは求婚して、1893年7月6日にセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルで結婚した。夫妻はサンドリンガム・ハウス内のヨーク・コテージで暮らし、ジョージは質素で静かな生活を好み、狩猟と切手収集に没頭した。切手の収集家としては名が知られ、その熱狂ぶりはインテリ層に蔑視された。1901年にヴィクトリア女王が崩御し、父がエドワード7世として即位すると、ジョージは王位継承順位1位となり、同年11月にプリンス・オブ・ウェールズとなった。オーストラリアでは連邦議会の開会に臨んだ。父から国事の書類に広く接する機会を与えられ、妻メアリーの助言を頼りにした。
1910年5月6日にエドワード7世が崩御し、翌1911年6月22日にウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行した。即位直後は内閣と貴族院の抗争に取り組み、貴族を新たに叙爵する大権の発動を主張して、アスキス首相を支持した。同年12月にはデリーでインド皇帝としての即位を宣言した。インド各地では狩猟に熱中し、トラを21匹狩ったと記録される。
1914年に第一次世界大戦が始まると、従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とは敵同士になった。国民の反独感情を考慮して、1917年7月17日、ザクセン=コーブルク=ゴータ家の家名を、居城にちなみウィンザー家に改めると宣言した。ロシア革命で従弟のニコライ2世が退位すると、イギリス政府は亡命者として受け入れる用意をしたが、革命が波及することを恐れたジョージ5世が亡命を拒んだとされる。一家は1918年7月17日にボリシェヴィキに処刑された。1926年のイギリス帝国会議では、自治領は本国と平等とするバルフォア報告書が採択された。1932年にはクリスマス演説が始まり、1935年の即位25周年記念式典では、自らを「ごく平凡な1人の人間に過ぎない」と述べた。長男エドワードとの関係に悩みつつ、1936年1月20日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ラモン・デル・バリェ=インクラン (1936年没)
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