HISTORICAL PERSON · 紀元前63年没

ミトリダテス6世

ポントス王国の王。母を軟禁して王位を握り、黒海周辺を制覇して小アジアに勢力を広げた。ローマと三度戦い、前88年には西アナトリアのローマ人約8万人の殺害を命じたと伝えられ、大王とも呼ばれた。

生涯
紀元前63年没
死亡地
ロシア連邦(クラスノダール地方 / ボスポロス王国)
出生地
トルコ共和国(スィノプ)
出典
世界地図
ロシア連邦(クラスノダール地方)

伝記

ミトリダテス6世エウパトルは、紀元前132年に小アジアのポントス王国の王都シノーペで、国王ミトリダテス5世エウエルゲテスと王妃ラオディケの長子として生まれた。母はセレウコス朝のアンティオコス4世の娘で、ギリシアとオリエントの文化に通じた教養ある人物であり、その影響で幼少期から学術・言語・武術に才能を示したとされる。紀元前120年に父が没する(暗殺ともいわれる)と王位を継いだが、まだ幼かったため統治の実権は母が握り、彼は監禁された。母たちに命を狙われながらも王宮を逃れ、数年を荒野で過ごした後、クーデターで母を軟禁して王座を手にした。この前後に、妹で妻となったラオディケを除く兄弟全員を殺害したと伝えられる。

王となった彼は、黒海とアナトリアへの領土拡大を志した。紀元前101年までに黒海東岸のコルキス王国を征服し、スキタイに脅かされたクリミアのタウリカとボスポロス王国には防衛を約束し、傘下に収めた。ディオファントス率いるポントス軍はスキタイと結ぶサルマタイ人を破り、双方に彼を盟主と認めさせた。黒海周辺をほぼ制すると、アナトリアへ手を伸ばし、ビテュニア王ニコメデス3世と組んでガラティアなどの分割を企てたが、ビテュニアはローマと同盟して対抗した。カッパドキアの支配権をめぐる争いでビテュニアを破ったものの、ローマは紀元前95年と92年に公然とビテュニアを支援しており、ローマとの衝突は必至となった。このころ娘クレオパトラをアルメニア王ティグラネス2世に嫁がせ、同盟を結んだ。彼はギリシア世界と東方世界の融合を目指すと誇称し、ヘレニズム世界の王者を自称したが、それは野心を実現するための宣伝にすぎなかったとされる。それでもギリシア人の一部は、ローマという「蛮族」からギリシアを守るとする彼の軍を歓迎し、ロドス島でローマ軍を包囲した際にはアテネなどが歓迎したという。

紀元前88年に西アナトリアを征服すると、そこに住むローマ人の殺害を命じ、約8万人が犠牲になったと伝えられる。この事件は「アジアの晩祷」として知られる。ギリシアへ進出した彼に対し、ルキウス・コルネリウス・スッラが討伐に向かい、この第一次ミトリダテス戦争で彼は2度敗れ、有利な講和を望んだもののスッラに拒まれて撤兵を余儀なくされた。紀元前83年にはローマ軍が講和を破ってカッパドキアとポントスに侵入したが、これを撃破して若干の領土を得た(第二次)。紀元前74年、ビテュニア王ニコメデス4世がローマへ領土を遺贈すると、これに異を唱えてアルメニアやボスポロスと結び、ビテュニアを攻撃し、第三次戦争が始まる。ルクッルス、次いでポンペイウスと戦い、一時は優位に立ったが、最終的には敗れた。

コルキスを経てボスポロスへ逃れ、総督で息子のマカレスを頼ったが協力を得られず、彼を殺して事実上ボスポロスを乗っ取った。再起を図ったが、紀元前63年に息子ファルナケス2世が反乱を起こし、形勢不利を悟った彼はパンティカパイオンで自ら命を絶った。毒殺を恐れて日ごろ毒薬を服用し耐性をつけていたため毒では死ねず、忠実な部下ビトゥイトゥスに命じて自らを殺させたとされる。遺体はポンペイウスのもとへ送られ、のちシノーペに埋葬された。

毒の研究にも熱心で、解毒剤「ミトリダティウム」の製造に関わったとされ、死後ローマへ伝わり、ネロ帝の侍医アンドロマコスの改良を経て万病薬テリアカへ発展した。大プリニウスは、彼が支配下の22の言語を通訳なしで話したと伝える。モーツァルトは14歳で、その生涯を題材に歌劇「ポントの王ミトリダーテ」を作曲している。

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