伝記
ルキウス・コルネリウス・シセンナは、古代ローマの軍人にして歴史家、年代記作者である。紀元前120年ごろに生まれ、紀元前67年に没したとされる。生涯や家系についてはほとんど知られていない。最初のコルネリウス・シセンナは紀元前183年の都市法務官として現れ、ルキウスの祖父か曽祖父かもしれないという。この一族は名高いコルネリウス氏族の貴族系の家とは関係がないと考えられており、シセンナ家はエトルリアの出ではないかとする学者もいる。一方で、スッラと同じコルネリウス氏族の貴族だったとする説明もある。
紀元前80年代の内乱で、シセンナはスッラを積極的に支持したと思われる。スッラの有力な側近だったルクルスらと親しく、著作でもスッラにやや肩入れしていたようである。スッラの独裁官就任の直後に紀元前78年の法務官に選ばれたことから、スッラの勝利で政治的に利益を得たとも考えられる。法務官就任のほかには、政治経歴はほとんどわからない。法務官の翌年の紀元前77年にシチリアを統治したという説があるが、確実ではない。のちには、紀元前70年にキケロに訴追されたウェッレスの弁護に加わったが、弁護は失敗に終わった。そして、ポンペイウスの海賊討伐作戦の副官に選ばれ、紀元前67年、クレタで戦死した。
シセンナがとくに知られるのは、紀元前90年ごろから紀元前78年までを扱った『歴史』の著者としてである。この作品は失われ、わずかな断片が、おもに古代末期の文法家ノニウス・マルケルスによって伝えられるだけだが、研究者クレープスによれば、この作品によって「ヒストリア」に同時代史という独特の意味が生じたという。少なくとも12巻、多ければ23巻に及んだとされ、同盟市戦争とスッラの内乱を詳しく述べていた。サルスティウスの『歴史』は紀元前78年から始まり、シセンナの続編として書き起こされたようである。
この著作は古代に広く読まれ、80年代についての決定的な史料となった。バディアンはこれを「当時の標準的な歴史」と呼んだ。キケロ、サルスティウス、タキトゥス、ウェッレイウス・パテルクルスが引用しており、リウィウス、アッピアノス、カッシウス・ディオらも大いに利用したと考えられている。キケロはシセンナを、学問に打ち込む博識の人と評し、その歴史は先行するすべての著作をたやすく凌ぐと述べた。サルスティウスもスッラの生涯についての記述を最も優れ、最も入念なものと称賛したが、スッラに偏りすぎていると批判した。また、キケロによれば、シセンナは珍しい古風な言葉を好み、日常語の改革者になろうとして、耳慣れない語を用いた。
オウィディウスが言及する、ミレトスのアリスティデスによる好色で悪漢的な『ミレトス物語』の翻訳者は、シセンナかもしれない。この物語はペトロニウスの『サテュリコン』の手本になったといわれるが、この同定には疑問を呈する学者もいる。また、プルタルコスによれば、シセンナはホルテンシウスやルクルスとの賭けの結果としてこの歴史を書いたともいわれる。その場合、ホルテンシウスはラテン語の詩で、ルクルスはギリシア語で、同じ題の歴史を書いたことになる。ミレトス物語は六巻に訳され、古代を通じて高く評価されたという。なお、クレタでの最期について、ギリシア沿岸のローマ軍を率いていたとする説明もある。作品の内容も、神話的な起源からスッラの死までを扱い、断片は約150が残るとされ、キケロはギリシア風の劇的な叙述が特徴だと評したともいわれる。
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