伝記
シャルル・ロベール・リシェは、1850年8月26日にパリで生まれたフランスの生理学者で、1913年にノーベル生理学・医学賞を受けた。アレルギー研究の父とも呼ばれる。父は解剖学者で外科医のアルフレッド・リシェ、祖父は法律家で政治家のシャルル・ルヌアールである。パリ大学教授でもあった父の影響で、早くから医学に興味を持った。大学に入って医学を学び、外科医を目指していたが、やがて生理学を志すようになった。1869年に医学の博士号を取得し、1878年には理学の博士号も得た。1879年にパリ大学医学部の生理学講師となり、1887年に生理学教授に就任した。
研究は血清に始まった。1888年、細菌に感染した動物の血液が、同じ細菌に致命的な影響を与えることを証明した。結核の治療に血清が使えるのではないかと考え、1890年から結核患者を使った血清療法の研究を始め、人に対する最初の血清療法を行った。結核には血清は向いていなかったが、のちにベーリングがリシェの方法をジフテリアに応用して成功している。次に1900年ごろ、熱帯のクラゲの毒の研究に取り組んだ。毒の成分はわからなかったが、致死量に至らない毒を注射した犬に、1か月後に同じ量を再び注射すると、急激な生理反応が起こって死に至ることを発見した。この反応は偶然ではなく、何度繰り返しても再現できた。1902年には、モナコ公アルベールの出資で行ったアゾレス諸島への科学調査の航海の途中、ポール・ポルティエとともにこの現象を確かめ、「無防備」を意味するギリシャ語にちなんで「アナフィラキシー」という言葉をつくった。ハチに複数回刺されたときなどに見られる危険な反応は、現代でも知られている。
1903年にはN・M・アルテュスの研究により、クラゲ以外の毒でもアナフィラキシーが起こることがわかり、1905年にはR・オットーが毒の種類を絞り込んだ。リシェの結論は、毒の注射ではなく、タンパク質の注射がショックを生むというものであった。これは、あるタンパク質がすでに血液中に取り込まれているかを調べずには血清が使えないことを意味し、重大であった。1906年には、ショックを起こさない生体の反応を、オーストリアのピルケがアレルギーと命名している。体温調整の機能の研究も業績の一つである。
研究の外でも幅広く活動した。平和主義者として各国の平和団体の会議を主宰し、国際的な仲裁機関の創設を訴えて、『戦争の過去と平和の未来』などの著作で戦争に反対した。ドレフュス事件ではドレフュス擁護の側に立ち、ゾラの『私は告発する』に支持と励ましを伝えた。1896年から1897年には、ヴィクトル・タタンとともに、南仏の自分の所有地で無人飛行機の飛行実験を行った。エスペラントの普及にも関わった。また心霊現象の研究でも知られ、1893年にイタリアの霊媒エウサビア・パラディーノを調べる過程で「エクトプラズム」という言葉をつくり、1905年には心霊現象研究協会の会長を務めた。
1927年に大学を退いたのちは、平和論の推進や航空科学、心霊の研究を進めた。1935年12月4日、パリの自宅で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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