伝記
ジェーン・アダムズは、1860年9月6日に生まれ、1935年5月21日に没したアメリカ合衆国の社会事業家、平和運動家、女性運動家であり、ソーシャルワークの先駆者である。1931年にノーベル平和賞を受賞した。
イリノイ州シダーヴィルに、8人きょうだいの末っ子として生まれた。2歳の1863年に母サラが亡くなり、その後は主に年上の姉たちに育てられた。4歳のとき脊椎の結核にかかり、背骨が曲がって、生涯健康上の問題を抱えた。父ジョン・アダムズは資本家で政治家であり、リンカーンの友人として、その上院議員選挙や大統領選挙を支持した。子どもの頃のジェーンは父を慕い、ディケンズを読んで貧しい人々に関心を抱いたという。父は進学に賛成したが家から近い学校を求め、ジェーンはロックフォード女子神学校に学んだ。学内で新聞の編集に当たり、1881年に首席で卒業した。しかし同年8月に父が亡くなり、さらに脊髄の手術のため、フィラデルフィアの女子医科大学での勉学も中断した。
1883年から2年間、神経症のような状態で、モラトリアムのようにヨーロッパを遊学した。スペインのマドリードで闘牛を見たことを機に生き方を見つめ直し、ロンドンに向かって、セツルメント運動の先駆であるトインビーホールを実地に見学した。そこで、学友で親友でもあったスターと共同して、アメリカ合衆国でのセツルメント開設を構想した。選んだのは、貧しい人たちが暮らすシカゴのスラム街で、サウス・ホルステッド通りの空き家となっていた邸宅であった。1856年に裕福な実業家が建てた家だったが、30年を経た当時は、シカゴで最も不潔で荒廃した地域の、極貧の工場や長屋に囲まれていた。1889年9月18日、彼女は友人のスターらとここにセツルメントを開設し、ハルハウスと名付けた。その後、多くの有能な女性たちも参加して、市民運動のような形になった。
ハルハウスは、成人のための夜間学校、幼稚園、少年少女のためのクラブ、慈善食堂、画廊、体育館、プール、図書館、音楽教室など、多くの部門を備え、週に2,000人もの人の世話をした。その意義は、貧困者救済の施設にとどまらず、教育・慈善事業と、近隣地区の状態の調査、改革運動を結びつけた点にあった。1890年代には、イタリア系、アイルランド系、ドイツ系、ギリシア系など多様な人々の暮らす過密な移民地区で、住民たちの経験から、少年裁判所や女性・児童保護立法などに連なる改革運動が展開された。住民らによる『ハルハウス地図と論文集』は、国籍、賃金、児童労働などを地図と論考で示し、社会調査を改革の根拠とする試みとして、後の調査にも影響を与えた。1900年には、のちに早稲田大学学長となった塩澤昌貞が1年間滞在している。
1911年にアメリカセツルメント・隣保事業センター連盟の創設に貢献して会長となり、女性の救援や平和主義の運動でも強力な指導力を発揮した。1920年には米国自由人権協会の共同創設者となった。1923年に来日し、賀川豊彦ら多くの社会事業家と交流している。1931年には教育学者ニコラス・バトラーとともに、アメリカの女性として初めてノーベル平和賞を受けた。主な著書に、1902年の『民主主義と社会倫理』、1907年の『新しい平和の理想』、1910年の『ハルハウスの20年』がある。1935年に没した時、アメリカで最もよく知られた女性公人であった。
同じ年に亡くなった人物
- エミル・ムイナルスキ (1935年没)
- アンナ・アンカー (1935年没)
- ヴァレリヤン・クイビシェフ (1935年没)
- ダニエル・サラマンカ (1935年没)
- メレティオス (メタクサキス) (1935年没)
同じ地域に関係する人物
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- リッチ・マリンズ (1997年没)
- セオドア・トマス (1905年没)
- セルジオ・オリバ (2012年没)
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