伝記
スパルタクスは、共和政ローマ期の剣闘士で、「スパルタクスの反乱」と呼ばれる第三次奴隷戦争の指導者である。生年は不詳で、紀元前71年に戦死した。英語の発音に合わせてスパルタカスとも表記される。
出自については史料の記述が分かれる。一世紀の歴史家プルタルコスは、トラキアの遊牧種族の出とし、勇気と力に加えて知恵があり温和で、出身民族よりもギリシア人に似ていたと伝える。二世紀の歴史家アッピアヌスは、トラキアに生まれてローマ軍の兵士となったが、捕虜となって剣闘士に売られたと記した。ロドピ山麓のベッシ族とする説が有力だったが、当時のトラキアに遊牧民はおらず、これはメディ族を指すとする主張もある。十九世紀のモムゼンは王族の子孫とする説を唱えたが、論証がないと批判された。いずれの説を採るにせよ、最終的に奴隷となった彼は、南イタリアのカンパニア地方のカプアにある、興行師の所有する剣闘士養成所に入れられた。反乱を起こした時の年齢も不明で、三十五歳から四十歳と推測する研究者もいれば、二十代の青年だったとみる説もある。プルタルコスは、同族の女予言者が、彼がやがて恐るべき勢力となるが不幸な結末を迎えると予言したと伝える。
紀元前73年、養成所にはガリア人とトラキア人の剣闘士が多く、約二百人が脱走を計画したが、密告で露見し、およそ七十人が武器を奪って脱走してヴェスヴィウス山に立て籠もった。彼らはガリア人のクリクススとスパルタクスらを指導者に選んだ。アッピアヌスはスパルタクスを首領としたが、リウィウスらは三人が同等だったことを示唆する。近隣の奴隷も加わって反乱軍は膨れ上がり、元老院が派遣した法務官らの討伐隊を相次いで撃退した。南イタリアの都市を略奪・占領して冬を越し、紀元前72年に北上を開始する。プルタルコスは目的をアルプスを越えて奴隷を故郷へ帰すことだったとし、アッピアヌスらはローマ進軍だったとする。軍紀は厳正で、略奪品は平等に分配し、金銀の私有を禁じていたという。
この年の二人の執政官、レントゥルスとゲッリウスの軍団が差し向けられ、クリクススの別動隊三万人が殲滅された。それでもスパルタクスは両軍団を撃破し、戦死したクリクススを弔うため、ローマ兵の捕虜三百人に剣闘士試合をさせて犠牲に捧げた。反乱軍は北イタリアに達したが、何らかの理由でアルプス越えを行わず、軍を反転させて南へ向かった。
元老院は新たにクラッススへ鎮圧を委ねた。紀元前71年、反乱軍は一度はクラッススの軍団を破ったが、最南端のレギウムに追い込まれた。シキリアへの渡航をキリキアの海賊と契約したものの、海賊は贈物だけを受け取り、約束の日に現れなかった。クラッススが陸峡に長城を築いて補給を絶つと、ポンペイウスの軍団が差し向けられると知ったスパルタクスは長城を突破した。別動隊は殲滅されたが、追撃した騎兵は撃破する。しかし兵が思い上がって戦いを強要し、故郷トラキアの反ローマ闘争が鎮圧され、ルクッルスの軍団も到着したと知って絶望し、決戦を決意した。
プルタルコスによれば、決戦前に彼は自らの馬を斬り捨て、「勝てば馬は幾らでも手に入る。負ければもう必要ない」と言って歩兵として戦った。クラッススをめがけて押し進み、小隊長二人を殺し、多くのローマ兵に囲まれて斃れた。遺体は発見されなかった。リウィウスによれば反乱軍は六万人が殺され、捕虜六千人はカプアに至る街道沿いで磔にされた。近代になると再評価され、マルクスは彼を「古代プロレタリアートの真の代表者」と評した。
同じ年に亡くなった人物
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