伝記
ルキウス・アエリウス・スティロ・プラエコニヌスは、共和政ローマ期の学者で、記録に残る最も早い時代のローマの文献学者とされる。紀元前154年ごろにラティウムのラヌウィウムに生まれ、紀元前74年にローマで没した。名門の出で、騎士身分に属していた。
スティロという呼び名は、ラテン語で蝋板に字を書く尖筆を意味する語に由来する。彼が多くの有力者のために弁論の草稿を書いていたからである。プラエコニヌスの名は、父が触れ役、つまり公の場で告知を行う仕事をしていたことによる。弁論の草稿を書いてやった相手としては、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス、クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ、クィントゥス・ポンペイウス・ルフス、ガイウス・アウレリウス・コッタなどの名が挙がっている。
貴族的な立場への共感は強く、親しい友人であったメテッルス・ヌミディクスが紀元前100年に追放されると、自らの意思でそれに同行したという。ローマでは、職業的な学校教師としてではなかったが教えることと、著作に時間を割いて暮らした。もっとも著名な弟子はウァロとキケロである。友人には歴史家のコエリウス・アンティパテルがおり、アンティパテルは自らの歴史書を彼に献じたとされる。また風刺詩人のルキリウスも友人で、作品を彼に捧げたといわれる。キケロは雄弁家としての彼を高く評価しなかったが、思想の上ではストア派に従っていたと伝えている。ストア派の影響は、彼の語源研究にも認められるという。
著作はわずかな断片が残るのみである。確かな著作として、命題を論じた書があり、ストア派に倣って構文を扱ったものと推測されている。また、メテッルス・ヌミディクスの著作の校訂本も出したとされる。サリイ神官団の賛歌についての注釈があり、十二表法についての注釈も書いたと考えられている。プラウトゥスの作とされる喜劇の真偽も検討し、二十五編を真作と認めた。これは弟子のウァロが認めた数より四編多い。さらに、文学、歴史、古事に関する問題を扱った一般的な語彙の書を著したともみられている。彼の著作の内容の多くは、のちにウァロらの著作に取り込まれたとされる。20世紀初頭の一部の研究者は、修辞学書『ヘレンニウスへ』の著者を彼とみなしたこともある。
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