伝記
エルンスト・ユリウス・ギュンター・レームは、1887年11月28日にバイエルン王国の首都ミュンヘンで、王立鉄道管理官の父グイドと母ゾフィア・エミリエの次男として生まれたドイツの陸軍軍人、政治家である。家はバイエルンの旧家で、父の地位も高かったが、給料が多いわけではなかった。1906年にミュンヘンの学校を卒業して歩兵連隊に入隊し、1907年に士官候補生の試験に合格して、1908年3月に少尉に任官した。1914年8月に第一次世界大戦が始まると、第一大隊副官として西部戦線に従軍した。大戦中に3度の重傷を負い、開戦の翌月にはロレーヌ地方で顔面に銃弾を受けて、のちにトレードマークとなる鼻筋が削がれ頬がえぐれた傷を負った。1916年6月にはヴェルダンの攻防戦で胸部に重傷を負った。1918年10月にはスペイン風邪で一時生存が危ぶまれたが回復し、終戦時は陸軍大尉で、一級・二級鉄十字章などを受章していた。
1919年4月にミュンヘンで赤色革命が起こり、社会主義政権のバイエルン・レーテ共和国が樹立された。ホフマン政権が義勇軍の結成を呼びかけると、レームもエップ義勇軍に参加して、抜群の組織能力で装備と兵站を任された。政府軍6万人は5月初めにミュンヘンに攻めのぼり、レーテ共和国を壊滅させた。その後、第7軍管区司令部で義勇軍や郷土軍の編成と維持に携わった。ヴェルサイユ条約でドイツの陸軍兵力は10万人に限られたため、民間の準軍事組織の育成・強化が重要になり、レームの任務の重要性も増した。1919年7月には将校の政治団体「鉄拳団」の創設に携わり、ここでアドルフ・ヒトラーの上司カール・マイヤー大尉を通じて、ヒトラーと知り合った。1920年1月にドイツ労働者党に入党している。
義勇軍の解散命令が出ると、レームは自分が編成した義勇軍を存続させる道を探り、解雇された兵士を集めた組織を作り、突撃隊にも義勇軍の人員を送り込んだ。ムッソリーニのローマ進軍に倣ってベルリン進軍を行う雄大な計画を持っていたとされる。1923年9月に軍を退役してヒトラーのもとに駆けつけ、11月のミュンヘン一揆では突撃隊などを率いて戦争省の軍司令部を制圧したが、一揆は州警察の銃撃で総崩れとなり、投降した。1924年4月の判決で禁固1年3か月となったが、すぐに仮釈放され、ヒトラーが収監されると突撃隊の総指揮を委ねられた。同年5月の選挙で国会議員に当選している。
1925年、ヒトラーがナチ党を再建すると、突撃隊をナチ党から独立した準軍事組織にしたいレームはこれと対立して決裂し、政界から引退した。1928年にはボリビア政府の招きで南米に渡り、軍事顧問として働いた。ヒトラーと別れる際、「いつか俺を必要とするだろう」と言い残したという。1930年、突撃隊の情勢が不穏になると、ヒトラーはレームに職を打診した。レームは11月1日に帰国して再入党し、1931年1月5日に突撃隊の幕僚長に正式に就任して、組織を中央集権化した。1930年に7万人だった隊員数は、政権掌握直前には70万人に達した。やがてヒトラーと路線が対立し、1934年7月1日、長いナイフの夜事件で粛清された。
同じ年に亡くなった人物
- ウィレム・ド・ジッター (1934年没)
- ポール・アンリ・ルコント (1934年没)
- ナサニエル・ロード・ブリトン (1934年没)
- トルライフ・ハウグ (1934年没)
- チャールズ・W・レッドビーター (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・バプチスト・フォン・スピックス (1826年没)
- ロベルト・レーマク (1865年没)
- ギーゼラ・フォン・バイエルン (1060年代没)
- ヨハン・エック (1543年没)
- Kathe Grasegger (2001年没)