伝記
フリッツ・ハーバーは、1868年12月9日、プロイセン王国領シレジアのブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)に、ユダヤ人の家系の子として生まれたドイツの物理化学者、電気化学者で、空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。父ジークフリートは染料を主に扱う商人で、母パウラは息子を産んだ3週間後に亡くなり、父は6年後に再婚した。継母とは良好な関係だったが、父とは性格が異なり、しばしば対立した。11歳でギムナジウムに入り、詩を作る一方で化学に興味を持ち、自宅での実験を父に禁じられると叔父の家で続けた。卒業後は家業のため染料商に弟子入りしたが合わず、叔父と継母の助けで父を説得して辞め、1886年にベルリン大学へ進んだ。
ハイデルベルク大学でブンゼンに師事し、2年の兵役を経て、シャルロッテンブルク工科大学でリーバーマンに学び、1891年に博士号を得た。兵役中には、のち妻となるクララ・イマーヴァールと出会っている。物理化学に魅力を感じ、オストヴァルトの研究室を望んだが叶わなかった。職を求めて転々としたのち、24歳のとき父の染料商を手伝ったが、商業上の失敗で会社に大きな損害を出し、親子の溝は深まった。そこでイェーナ大学のクノールのもとで1年半研究し、化学者への思いを強くした。1894年、カールスルーエ大学で無給助手として働けるようになり、25歳でようやく落ち着いた職場を得た。この頃、ルター派に改宗している。当時のドイツにはユダヤ人への反感があり、キリスト教徒以外は大学の研究職に就けないと知ったためという。
1896年の論文「炭化水素の分解の実験的研究」が注目されて私講師となり、1898年には電気化学の教科書を出版した。教科書は好評で、同年に助教授となった。1901年に学会で再会したクララと結婚した。1904年に窒素からのアンモニア合成法の開発に着手し、これは1912年に化学メーカーで実用化された。1906年に教授となり、1912年には新設のカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所の所長に就任した。
第一次世界大戦が勃発すると、愛国心の強かったハーバーは従軍を志願したが却下され、ガソリン凍結防止用の添加剤の開発を命じられた。その後に関わったのが毒ガスの開発で、軍は全権を与え、研究所のほぼ全体がその研究に使われた。ハーグ条約違反ではないかとオットー・ハーンに問われると、最初に毒ガスを使ったのはフランス軍で、戦争を早く終わらせれば多くの人命を救うことになると答えた。1915年4月22日、イーペル地区で毒ガス作戦が実行され、大きな成果を上げたが、国際的な非難も浴びた。同年5月2日、夫の毒ガス兵器の開発に反対し続けていたクララが自殺した。ただし、その理由には生活への不満など複数の事情が重なったともいわれる。ハーバーはその後も作戦を続け、1917年10月にシャルロッテ・ナタンと再婚した。戦後は戦犯として裁かれるとのうわさでスイスに逃れたが、のちに帰国し、アンモニア合成の業績でノーベル化学賞受賞の知らせを聞いた。
敗戦で研究所は資金難に陥り、海水から金を回収して賠償金に充てる計画も始めたが、含有量が推定よりはるかに少なく、1926年に中止した。1933年にナチスが政権をとると、ユダヤ人の多いカイザー・ヴィルヘルム協会への圧力が強まった。第一次大戦の従軍経験が考慮されて自らは解雇されなかったが、研究員のユダヤ人の割合を減らすよう求められ、これを受け入れなかった。1934年1月29日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ダキンフィールド・ヘンリー・スコット (1934年没)
- ヤーコプ・ヴァッサーマン (1934年没)
- アーサー・シュスター (1934年没)
- ウォーリス・バッジ (1934年没)
- Safvet beg Basagic (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- ウルス・グラフ (1528年没)
- ヤコブ・ベルヌーイ (1705年没)
- J・J・バッハオーフェン (1887年没)
- ヴィルヘルム・ヴァッカーナーゲル (1869年没)
- Vace Zela (2014年没)